『ARIA』②
『ARIA』②
お久しぶりです。前回の更新から随分と日が空いてしまいましたが、前回の記事を書いた後に『ARIA』を再読いたしました。その時、幾らか思うところがあって今回の記事を書く次第となりました。さて、本題に移りますと『ARIA』という作品に内在する日常性の構造については、不足ながらも前回の記事で言及いたしました。つきましては、今回の記事は加筆に近い形式を採らせていただくことで、本作品における風景描写に焦点を当てつつ、更に考えを深めていきたいと思います。
『ARIA』での風景描写とは
まず、前回の記事では『ARIA』という作品に内在する日常性の構造を、水無灯里の時間とネオ・ヴェネチアの時間という二つの時間のもとに成立しているものであるとしました。
『ARIA』という作品において、主観的な視点となる水無灯里の日常生活の時間は、長い歴史をもって形作られてきたネオ・ヴェネチアでの周期的な時間に内包されているように思えます。『ARIA』という作品では、作品内の時間は四季の流れにそうように経過していきます。このような四季の流れのなか、ウンディーネとして修行を重ねる水無灯里の日常生活が描かれる一方で、ネオ・ヴェネチアでの四季折々の慣習・行事に接する水無灯里の姿も日常生活の一部分として描かれているのです。ここに、水無灯里がネオ・ヴェネチアにくる前から続いていた慣習・行事が水無灯里という主観的な視点を通して「反復」されるという構造が見出されるのではないかと考えるにいたりました。そして、このような慣習・行事が主観的な視点を通して反復されることで「来年にも」という反復可能性をもった長期的な持続のビジョンが形作られ、日常性を持ったゆっくりとした時間が形成されるのでは・・という結論に至りました。以上が前回の記事の概要ですが、今回の記事では『ARIA』本編での風景描写と「反復」という印象に焦点を当てつつ、論を進めていくこととなります。
まず、風景描写についてということで『ARIA』本編からの抜粋を一つ挙げさせていただきます。
網の目状に広がる迷宮のような街を歩き続けると やがて あることに気が付きます。
小道を抜けて広場へ 橋を渡って運河へ どこまでも規則正しく繰り返される風景が
この街を歩く人に一定のリズムを与えてくれるのです。
以上の抜粋は『ARIA』本編でのネオ・ヴェネチアで水無灯里たちが宝探しをするというエピソードからのものです。宝探しをする際に水無灯里たちはネオ・ヴェネチアの街を歩くこととなるのですが、その時に水無灯里はネオ・ヴェネチアという都市の風景はある種の規則性のもとに形作られていることに気が付きます。それが先ほど抜粋しました規則正しく繰り返される風景、反復されるかのごとき風景のことです。では、都市を歩く時に生じる風景が反復されたという印象はどのようにして生じるか。風景が反復された、このような印象はそれ自体が過去に受けた印象からの連続性のもとに成り立つものであるように思えます。先に挙げました抜粋でいうならば、「小道を抜けて広場へ、橋を渡って運河へ」のような経験から、景観のなかにある種のシェーマ(様式)が認知されることで次に同じようなシェーマを認知したときに「反復」されたという印象が生じるのではないかと考えます。
また、「歩く人に一定のリズムを与える」ということからもネオ・ヴェネチアの「風景の反復性」が経験からくるシェーマ(様式)だけではなく、建物の尺度にもある程度の規則性が存在し、そのような規則性のもとに建物の配置がなされているのではないかと考えました。
以上のことから、水無灯里が受けた「風景の反復性」はネオ・ヴェネチアの景観にあるものの尺度としての規則性と街を歩くという経験からくるシェーマ(様式)によるものであり、ネオ・ヴェネチアにはこのような印象を成り立たせる土壌が景観として存在すると考えるにいたりました。
「反復」と「風景」
先の節では、「風景の反復性」について触れましたが、ここでは『ARIA』本編で移り行く四季のなか、風景がどのように描かれているかも踏まえた上で『ARIA』という作品が日常をどのようなものとして描いているかを射程として捉えていきたいと思います。
まず、『ARIA』の時間の流れは四季に沿っていますが、そこでの四季折々の風景は過去との連続性のうちにありつつも、水無灯里の視点を通すことで違った風景として描かれています。その例として一つ挙げるならば、水無灯里がウンディーネとしての修業に励むある日、その時に乗船していたお客が水無灯里が普段通っているような水路で水無灯里が見つけたこともない庭を見つけたこということが挙げられるでしょう。
ここでは、日常的に通っているような水路であっても、そこにはまだ気づいていないような「素敵なもの」があるといった具合に描かれていますが、「風景の反復性」と「時間の反復性」という観点から見るならば、この例は幾らかの示唆的な意味合いを持ってくるように思われます。それは反復的な風景・時間のなかにおいても、偶然的な価値が存在するということを示しているのではないでしょうか。
同じものでも、時間帯によって全く違う顔を見せてくれたり、季節が変わることで空気や色合いも移ろっていく その時、その場に居合わせる自分の気持ちひとつで見えてくる世界がまったく変わってしまう。
上述した抜粋は『ARIA』本編でアリシアが発した一言からのものです。ここから、水無灯里の視点
を通して描かれる『ARIA』での日常的風景は、四季を通した円環的・反復的な時間のなかでまだ見ぬ価値を秘めたものとして描かれているのではないでしょうか。また、このことから『ARIA』という作品において、「日常」は反復的なものでありながらも、新しい価値を生み出すものとして描かれているという考えにいたりました。このように『ARIA』という作品は、「日常」という「反復される時間」から生まれる風景・価値を提示しているのではないでしょうか。
以上で今回の記事の内容は終わりとさせていただきます。ここまで読んでくださりありがとうございました。
『ARIA』における日常性と都市の時間について
選択肢と遡及的な潜在性の生成可能性
選択について
お久しぶりです。約一か月ぶりの更新です。今回は、「試論」の影響から勢いで書いたような記事です。いつもの如くつらつらと書き綴っていきます。
①選択とは
広義の選択は、幾つか存在する手段の内から、ある目的に沿ったものを選ぶという意味を持っています。このような意味をもう少し深く捉えるならば、前提として選択が為される前にある目的が存在し、その目的に達するために、合理的と判断される道筋が選択されるものであると考えることができるでしょう。これについて考えるうえでの一例を提示するならば、目的地までの道の選択が示唆的であると考えます。そのため、以下では目的地までの道筋決定のプロセスを例として挙げつつ、選択という行為についての考察を深めていきたい所存です。
不慣れな土地にある目的地へ移動することになったとき、まず目的地に至るための道筋を列挙し、どの道筋が最良であるか検討する。以上のことがらは、前述したような状況下では往々にして生じうる思考ですが、このような思案の背景には、始点と終点を指定し、次に目的地までの道筋が描かれ、なおかつその道筋が何らかの基準のもとに選別が為されるという一連の思考過程が存在するように思えます。目的地を設定した後、道筋は多数列挙されると思いますが、その道筋のなかには現実的な実現性を欠いたものや、非合理的であると考えられるようなものも存在するでしょう。ここで云う非合理性について極端な例を挙げるならば、目的地に至るまでに個人の家宅を横断する等といったものが挙げられます。そして、このような目的にそぐわぬ道筋は思考過程の段階で選択肢から排除されていると考えます。このことから、最終的に選ばれる道筋は既に幾つかの選別を経たうえで残ったものであると言えるでしょう。そして、このような過程を経たうえで形成された道筋は目的地に対して合理的な選択肢となりうるといえるのではないでしょうか。
以上のことから、選択という行為は遂行される行為の前にあり、目的地と道筋の関係に見られるように、選択という行為自体が幾つかの否定を得たうえで成り立つようなものであると考えられます。
ここまでに、選択という行為の一端に触れ、幾つかの諸性質を明らかにすることができたように思えます。ここでは、本題にある「ノベルゲーム」における選択概念についての考察を深めていきます。
まず、「ノベルゲーム」では選択がどのようなものとして示されるかについて明らかにすることから始めます。「ノベルゲーム」の選択の特徴として、一つの世界で分岐したシナリオ上の可視化された一点、分岐点において選択肢自体が目に見える形で現前しているという点が挙げられます。しかし、ノベルゲームのシステムから、選択肢概念をノベルゲームという一ジャンルで一括りにすることは難しいように思われます。そのため、ここではゲーム内で選択肢が存在し、それがゲーム内シナリオの分岐に関わるものに対象を限定します。そのうえで、再び「ノベルゲーム」における選択肢概念について再考致しますと、「ノベルゲーム」の選択肢は、シナリオ(道筋)上で分岐点、或いはそれに関わる段階で選択肢が可視化されていて、なおかつプレイヤーがその選択肢を選ぶという行為に関わっているという点が挙げられます。まず、前者の分岐点・選択肢の可視化についての話を進めますと、選択肢の可視化というシステム上の特徴は一項の選択肢概念から考えるに、ある行為のまえに先立って現れる前行為な性質を持つものであると位置づけることができます。また。ここで着目すべき点はこのような選択肢がシナリオの分岐、ひいては登場人物の行動の契機ともなりうるというところにあります。このことはゲームにおける選択肢がシナリオの分岐やそのEDに繋がっているということが言えます。
もう一つ選択肢の可視化についての言及を付け加えますなら、この選択肢自体が幾らかの限定的な状況下の下に成り立っているということです。これは最初に述べました選択肢の限定的性格とも関わるところですが、ゲーム上の選択肢の限定的選択は合理的な規範、ないしは個人的な傾向による限界性ではなくシステム上で物語が語りうる範囲の限界性に基づくものではないかと推測致します。ノベルゲームの特徴として、ライトノベル等の小説媒体にはない多様なありうる世界の提示というものが挙げられますが、選択肢による分岐というシステムから多様な世界を分岐された世界として描くことには限界が存在するのではないでしょうか。
以上のことから、ノベルゲームの選択肢はある行為の前の分岐点で可視化されており、そのような選択肢はシナリオの分岐や物語の結末について重要な役割を占めているように思えます。そして、ノベルゲームの選択肢は分岐というシステム上では限界付けられたものとして提示されていると結論付けます。
前述しましたように「ノベルゲーム」の選択肢はシナリオ内で分岐や結末に関わるものですが、ここではそのような選択肢にプレイヤーが関わることについて考えていきます。
まず、ノベルゲームでプレイヤーが選択肢・分岐に関わることはシナリオの分岐先にある結末に関わるということを意味します。このことはギャルゲー的な攻略という観点による選択についての考えですが、攻略という視点から見るなら、選択はプレイヤーの物語への意思介入の機会であるように思えます。ここで言うところのプレイヤーの意思については、〇〇というキャラが好きだから、〇〇のシナリオが良いから、等のプレイヤーの動機からくる選択と捉えてくださって大丈夫です。さて、話を戻しますと先ほどプレイヤーの意思介入と選択肢について少し言及致しましたが、ここから先ほどのノベルゲームの選択肢の限界性も踏まえつつ話を進めていきたいと思います。
選択肢の限界性という観点からプレイヤーの介入可能性について考えますと、分岐後のEDから選択肢を振り返ってみたときに、その選択肢と分岐は幾らかの必然性のような性格を帯びているように思われます。これは結末から振り返ってみたときに、選択肢と分岐点が可視化されているというところから生じると考えます。
②潜在性の遡及的形成可能性について
選択肢の限界性とプレイヤーの関係性について考えたときに、ノベルゲームの選択肢は限界性から限定されており、またプレイヤーの選択そのものも限界づけられているように思われます。ここでは、そのような限界性からではなく、分岐点と選択肢が存在するということからノベルゲームの選択肢とプレイヤーの読みについてもう一度考えていきたいと思います。
まず、システム上の選択肢の限界性から分岐として現れる世界は限定されています。しかし、選択肢と分岐が存在するということは多様な世界の在り方を示唆する諸点であるように思えます。分岐後の結末から選択肢と分岐点を振り返ったとき、そこでは前述したような必然性のようなもの伺えますが、それと同時に分岐点やそこに至るまでの道筋に潜在的な分岐点を見ることも可能であるようにも思えます。恐らくこの傾向は両者ともに分岐した物語が進むにつれて顕著になり、分岐点が提示されるにつれて潜在的な分岐点も意識されるのではないでしょうか。そして、このことから潜在的な分岐点は遡及的に形成されるのではないかと考えます。
ここに、ノベルゲームの選択肢と分岐点から生じた世界に反復可能な遡及的読みの可能性があるように思われます。
以上で今回の記事は終わりです。ここまで読んでくださり有難うございます。考えがまとまっていないところが多く、これから詰めていけたらなと思っている次第です。
「イメージの力」展についての所感 イメージの言語化
「イメージの力」展についての所感 言語化されるイメージについて
はい お久しぶりです。こんにちは、こんばんは、或いはおはようございます。ここ最近私事のほうで少々忙しく、こちらのほうに気を配る時間もなく更新が滞っておりました。しかし、目下の課題もひと段落ついたため更新する次第となりました。さて、本題のほうに移りますと実は先日大阪にある国立民族学博物館のほうに行きまして、「イメージの力」展を見てきました。今回の記事ではそこで見た展示より受けたインスピレーションをもとに、内的なイメージを外部化すること、また外部化されたイメージに触れることについてダラダラと書き綴っていきたいと思います。しばしの間ですが、お付き合いいただければ幸いです。
■イメージとは
はい、今回見てきた展示がイメージを主題として取り扱ったものだったので、まず、イメージとは何ぞや という問いから始めていきます。
イメージ [名](スル)心に思い浮かべる像や情景。ある物事についていだく全体的な感じ。心像。形象。印象。また、心の中に思い描くこと
以上は「イメージ」の辞書的な意味であります。ここにおける意味を字面通り捉えるならば、イメージとは視覚的な対象(経験された事実)が先行し、それに対して私が心のなかに抱くぼんやりとした輪郭のようなものと言ってよいでしょう。
さて、ここから今回の展示内容におけるイメージとのすり合わせを行っていきます。
前述した通り、展示内容にまで詳しく言及することは避けますが、そこでの展示内容の一部で先史における「イメージの外部化」を主としたものがありました。
ここからは私個人の所感ですが、先史時代、様々な民族が形作ったオブジェクトのなかには彼らの信仰とも言えるもの、つまり後に体系化され宗教となっていくようなものに基づいたと考えられるものが多々見られました。さて、ここに現代におけるイメージの概念と先史におけるイメージの概念は連続的な線上にあるものではなく、大きな隔たりをもったものであると考えました。
理由としては、先史において、人々が作ったものには現代における「イメージの外部化」とは異なる点が見られました。これは全てに共通するものではありませんでしたが、何らかの形式を持ちつつも、個人の内的なイメージによるところが大きいという点です。
このことから私は先史において「神」、「精霊」などの神性を宿すとされた超越的なものは体系だった形を初めからもっていたのではなく、個人の内的なイメージが外部化されたものであると考えます。
■イメージの外部化について
では、近代における「イメージの外部化」とはどのようなものか。ここで私は近代という時代を代表する思想とは言えないかもしれないですが、一例として、フォーマリズムという概念を持ち出したいと考えます。
フォーマリズムとは何か。これについてはグリーンバーグという美術評論家が言及しております。
彼は、宗教芸術であれ、娯楽のための芸術であれ、宗教や娯楽といった他の価値観に依存してしかその存在価値を主張できないようなアートのあり方を批判して、アートに対してそれ本来の「独自のまた削減しえないようなもの」「それ自体に固有のものである個々の営利」といった条件を要求した。その結果、「視覚芸術は視覚的経験において得られるものだけにもっぱら自己を限定すべきものであり、その他の経験の部類において与えられるいかなるものとも関係を持つべきではない(現代思想 1997年5月号より)
以上がグリーンバーグによるフォーマリズムに対しての言及ですが、ここからフォーマリズムというものが視覚的な要素に偏重し、そこから得られる価値を重視するものと考えることができます。では、このような思想が成り立つために芸術には何が求められるでしょうか。それは「イメージの外部化」の先にある「イメージの言語化」であると考えます。
他の価値観によらない芸術とは、およそ社会的な文脈から切り離されてそれ独自で成り立ちうるような「体系」が必要となると考えます。そこで、視覚的な要素に偏重するフォルマリズムが成立するうえでは視覚的な要素(イメージ)を芸術家、ひいては鑑賞するものの間に成り立つ共通言語という土壌が必要ではないでしょうか。
つまり、この「フォーマリズム」とは個人の内的なイメージが外部化されるだけでは成り立たず、なおそこで示されたイメージが記号化され、共通言語となった上で成立するものであると私は仮定いたしました
そして、ここに先ほど述べた大きな隔たりが存在すると考えます。以上の仮定を踏まえて考えるならば、先史における「イメージの外部化」は個人の感覚が占める割合が大きいと考えられる一方で、近代における「イメージの外部化」とは「フォーマリズム」に見られるように個人のイメージに先立った集団的なイメージが存在するのではないだろうか。これらのことから、先史と近代の「イメージ」の間に大きな隔たりがあるのではないだろうかと考えるに至りました。ここではこの集団的なイメージが成り立つ過程を「イメージの言語化」と仮定いたします。
■イメージの言語化について
さて、ここまでに先史と近代の「イメージ」という概念の違いに触れてきましたが、次に何故このようなことが生じうるのかということについて考えていきたいと思います。
本展では、イメージは言語に先立つものであり、先史における人々はこのようなイメージをものとして外部化し共有するに至ったという旨の文章が書かれておりました。これについては私個人としても意見を同じくするところがありまして、言語が持つ状況を描写しうる性質、これはこのようにイメージを形として外部化することで成しえたと考えることは可能であるように思われます。
ここから、イメージが外部化の仮定を経て、遂には言語化されるまでに至ったことについて考えるうえでの指針を得ることができるのではないでしょうか。
それは内的なイメージを形として外部化することは「名指し」を可能とすると考えられるからです。例えば、私の内にある「神」や「精霊」などのイメージについて言語を用いることなく、それをあなたに伝えることは可能でしょうか。私はひどく困難であると考えます。しかし、一度私がそのイメージを形として外部化したならどうでしょうか。私はそれを指差すことで、「神」のイメージを名指すことができます。
しかし、そのイメージは「神」の観念を形として名指すには充分ですが、あくまでそこにおける「神」はまず形というものを経て言語化されます。このような過程を経るときに、形式それ自体が言語的な特性を得ると私は仮定しました。ここには「イメージの外部化」につきまとう指差しによる「名指し」の可能性が付きまとうからです。
ここまでに「イメージの外部化」と「イメージの言語化」について言及してきましたが、結論としては、私たちが日常的に抱くイメージは言語化された後に体系となったもので、現代において、言語化されたイメージは広く存在するものではないかと考えられます。
本題はここで終わりですが、次に以上のことから私が考えた「イメージの再言語化」について考えていきたいと思います。
■イメージの再言語化について 試論
さて、先ほど「イメージの言語化」について言及しましたが、イメージの言語化の広がりは先ほど述べたイメージ(視覚として見える形)に限った話ではなく、言語それ自体についても言えることはではないかと考えます。
これは私事についてですが、自分は何らかの問題について言及するときに、そこの背景にある構造的な問題を主として捉える節があります。そして、このような構造について既存の体系立った概念を用いつつ言及していくわけですが、その時に用いる概念の形式に偏重し、内容に対しての思慮が欠損していたことが往々にしてありました。
この場合、私は概念がもたらす形式としてのイメージのみならず、それを言語として問題に言及していたのです。この場合、問題それ自体もイメージとして捉えられているのではないかと考えるに至りました。
私がこのブログで記事にしている内容にはある作品についての言及の他に日々の生活のなかで感じたことも含まれています。このようなことを行う理由の一つとして、先ほど掲げた「イメージの再言語化」を図るというものがあります。
「イメージの再言語化」とはどういったことかと言えば、先史における「イメージの言語化」の再演と考えていただいて差し支えありません。ここでいう再演とは受け取ったイメージを再び自身の内で言語化し、外部化することを指します。
つまり、一度触れた概念に抱く言語的イメージを再び言語として外部化しようという試みです。
勿論、この試みがどれほどの実効性を持つかは、現時点においては定かではありません。ただ、イメージを再言語化する行為は言葉の意味が同語反復的な循環に陥ることに対して、幾らかの効果を持つのではないだろうかと今回の展示を見て思いました。
■まとめ
今回の記事では展示を通しての所感から、「イメージの言語化」を主題としてダラダラと書き綴りましが、ここらで終わりとさせていただきます。文中で最後に触れました「イメージの再言語化」については独断と私見を大いに含むため、不快感を抱かせてしまったなら本当に申し訳ないです。ただ私がブログ等で文章を書く理由としては一応上述したような理由が挙げられます。(実行できているかどうか怪しいところも多々ありますが・・・)
ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。
「笑い」と構造
笑いと構造
はい。こんにちは。こんばんは 或いはおはようございます。今回は「笑い」について書いて
いきたいなぁと思っている次第です。というのもここ最近バタイユの内的経験という著作に少し触れまして、改めて笑いとはなにかについて考え直す機会があったので、それがきっかけであると言えます。前置きはこのぐらいにして本文に入っていきたいと思います。
笑うということとその構造
まず、人が日常的に行うことがある行為の一つであるとされている「笑い」とはどのようなものか考えていきたいと思います。笑うという行為が発生するときに、そこには何らかの状況が存在すると考えます。ここで云う状況については広義のものとして捉えてくださってかまいませんが、強いていうなら連続的であると感じられる一日のうちにあるワンシーンのようなものと考えてくださってかまいません(ノベルゲーで例えるならシーン回想において一つの単位とされるアレを思い起こしてくださるとよいかと思います。
笑いあるところに状況あり。先ほどこのように述べました理由としては笑うという行為が何かを対象とした文脈的な行為であるからと考えるからです。これに関しては「お笑い」でよく見られる笑いを想像してくださるとよいかと思います。私感ではありますが、「お笑い」などの他者に見られることを前提とした文化形態はある種の様式のようなものをその文化圏において持っていると考えます。
そもそも、お笑いとは人を意図的に笑わせることを目的とした文化形態の一種であります。意図的に笑わせるためにはもちろん何らかの技巧が必要とされると考えます。これは日常において何かウィットに富んだ小話でもしようとした結果として、場の顰蹙を買ってしまうなどの経験をしたことがあるかたなら想像していただけるかと思います。彼らの芸は意図的に人を笑わせるためにはどのような技法・様式が必要とされるかをとことんまで突き詰めていく文化形態であるといってよいでしょう。
例えば、「お笑い」を見ていると、何だあれはまったく笑えないまたはわけが分からないなどと感じてしまうものが出てくるのは往々にしてある話です。わけが分からない、或いは全く笑えないと感じてしまう冷めた感情など。しかるにして、これらの感情は芸を行う彼ら(パフォーマー)と私たち(オーディエンス)の間で何らかの共通合意が存在しないが故に生起するものであると推測します。
ここにおける共通合意の不在こそが「お笑い」と日常、どちらにおいても起こりうる冷めた空気の原因であると考えます。このような冷めた空気は彼らの行為が理解できないという感情から生じるものであるということは先ほど述べた通りだ。しかし、理解できないとはどのようなことか。ここでは些か不適切ではあるが、前回の記事で述べた思考の箱に関しての私個人の考えをもとに話を展開していきたいと思います。
大きな枠組みと「笑い」
まず、現実における箱は社会的な交流のもとに合成された産物であると仮定します。ある事柄を理解するための大きな枠組みという機能を持つ以上それはその機能を果たす集団を横断するものでなくてはならないだろうという推論のもとから以上のように考えました。
前回記事より
前回の記事では、物語世界と現実において、それぞれ世界で他者が取りうる行為・感情などへの推論を可能とする大きな枠組みこそが「思考の箱」であると仮定いたしました。
では、ここに先ほど「お笑い」の項で述べた冷めた感情という現象について文脈的な推論を可能とさせる「思考の箱」という概念を照らし合わせてみるならどうでしょうか。
冷めた感情、これは「笑い」をもたらそうと意図されている行為が自身の期待にそぐわず理解できないものであったときに生じうると思われます。それが期待したものとは違っただけではなく、ましてや理解不能なものであったなら、それに対して抱いていた期待・感情の行き場はどうなりましょうか。いいや どうしようもないでしょう。それが期待していたものと違う。これは行為者とオーディエンスの間で「笑い」という枠組みに対しての齟齬があったがために生じたことで、始まりからして既に大きな断絶があったと言えます。
概していうなら、行為者とオーディエンスの間である状況に対してそれがもたらすであろう意味への認識の齟齬が冷たい空気をもたらしていると言えます。これは大きな枠組みにおいて推論を可能とする「思考の箱」において両者の間に内的経験か何かによる違いがあったからであるとも言い換えられます。これは日常レベルで笑いの感性などといわれるものであると考えます。結論としては、日常レベルで私たちが意図して「笑い」をもたらそうとした結果、そこで生じる冷たい空気は行為者(笑いをもたらそうとするもの)とオーディエンス(それを見るもの)の間にある認識の齟齬がもたらすものであると私は考えました。
ここまでである程度日常レベルでの「笑い」についての言及は終わりとしたいと思います。
ここで、意図された「笑い」にもう一度目を向けていきたいと思います。先ほどの日常レベルでの「笑い」についての言及で、笑いはある共有された枠組みがあって初めて成立するものであると仮定いたしました。これに関しては「お笑い」の次元においても同じであると考えます。では両者の間に跨る差異とは何か。ここではそれについて言及していきたいと考えます。
まず、初めに述べました通り「お笑い」とは人を意図的に笑わせることを目的とし、それについての技巧。手法の探求を行う文化形態であると私個人としては考えております。ここで先ほどまでの考えも踏まえますなら、「お笑い」とは如何に行為者とオーディエンスの間で共有された枠組みを見出し、両者の間での折衝をすすめていくかに苦心するものであるといってよいでしょう。しかし、共有された枠組みを見出すとはいっても、それは到底容易な作業であるようには思えません。プロは如何にしてそれをおこなうか。
この問いについて考えるならば、「時事ネタ」を挙げるのが一番であるように思われます。
時事ネタは個々の集団に依るアイデンティティなども異なるオーディエンス一同にとっても最も共通性を持つ枠組みの一つであると言えるはずです。しかし、時事ネタはその特性上時間と共に忘れられていく傾向にあるものであり、これだけではあまり不十分であるように思えます。
ここに従来の「お笑い」が持つ型が加わるのです。私個人の考えとしては、型は当然行為者とオーディエンスの間での共有された枠組みとなるべき設計されたものであり、それらが行為者の意図するところ(笑いの感性)時事ネタなどと複雑に絡まりあい一つの「型」となっていくのだと考えます。
つまり、「お笑い」という場においてはそこでの伝統的な型(枠組みと考えてもらって構わないです。)が形成され、時の変化に対応しているが故に日常的な「笑い」のレベルとは異なり、枠組みが共有された時には「笑い」がもたらされ、逆に共有されていなかったときには冷めた空気が生じるという独特の文化構造を生み出すに至っているのです。
笑うということ
まず、笑いとはある枠組みが共有され、それが面白いと感じられた時に生じます。ここではその「面白い」と感じる感性の面からではなく、笑うという行為そのものついても少しだけ触れていきたいと思います。
他者 笑い
笑いが起こる時には、そこに何らかの状況があります。広い意味での笑いならそこに
他者が存在しなくとも成立します(自嘲などはそれに当てはまるのではないかと考えます)。
しかし、自嘲にしてもそこに笑いがあるとき、笑われる対象は必ず存在するのです。
ある対象を笑うとき、私はその笑う主体と笑われる客体の間である領域の措定がなされると考えます。これは笑うという行為がある枠組み(価値。基準)に基づいたものであるからです。笑われる対象があるときに、それはある主体によって枠組みに照らしあわされた結果として、そのような枠のうちにあるから笑われているのだと考えます
メタ的な笑いとは
ここで笑うということが大きな枠組みと関わりつつ、領域の措定をなすものであると触れました。ここで一つの例を挙げたいと思います。お笑いにおいて時事ネタなどが取りあげられることがあるということは先ほど述べた通りですが、これら時事ネタは時に皮肉的な様相を含むように私は感じられます。皮肉的な様相、しかし、それら時事ネタを目にするとどうでしょか。ものにもよるとおもいますが、そこにおいて私は笑うのです。何故ならそこの行為者においてあたかもそのネタは笑われるべき対象であるかのように描かれ、私自身も大きな枠組みにおいてそれは笑われるべきものだと捉えてしまうからです。
そしてふと気が付くと自分が笑っているもののなかに自分自身の姿があることに気が付きます。そう、私がそれを笑ったときにそこにおいて領域の措定がなされます。それは大きな枠組みによってです。それはどうしようもなく。領域の措定がなされたときに、初めて私が笑っているものがいる領域は私自身が属する領域であると気が付いてしまったのです。
このように笑いの性質からして、笑われる対象が明確化されたときにそれに対して皮肉的な様相を見せるような笑いもあるのかもしれない とふと思いました。
まとめ
ここまで「笑い」ということを一つのテーマとして文章を書いてきましたが、ここらで一度終わりとさせていただきます。終始「笑い」についての文章でバタイユの思想に触れることはありませんでしたが、それはそれということで。ここまで読んでくださりありがとうございました。
思考の箱
思考の箱
はい どうも。こんにちは こんばんは 或いはおはようございます。 今回は前回の記事(猫撫ディストーション雑感)よりある事柄への推論を成り立たせるための「思考の箱」について考えていきたいと思います。いつものように論拠なしの思考を延々と垂れ流す記事ですが、見てくださると嬉しいです。
いつのまにか その中に放り込まれて
七枷 樹 猫撫ディストーション
これは前回の記事においても引用した文ですが、ここでもう一度示しておきたいと思います。さて 示されたこの言葉に目を向けていきたいと思います。ここでの言葉は七枷 樹がある事件が起こった日のあとから、依然は繋がりを感じることができた家族が自身にとって未知のエイリアンであるように思われた時に、自身が今置かれた環境をまるで知らず知らずのうちに箱の中に放り込まれた存在であると感じたことから口をついた言葉です。
さてこの知らず知らずのうちに「箱」のなかに放り込まれたという彼の心情の例えは物語、ひいては広義における思考が介したものを私たちが理解する際に用いる枠を理解するうえで役に立つと考えます。
再考 枠組み
枠組みに関しては前々回の記事で触れましたが、自身の思考を整理するうえでももう一度再考したいと考えます。
枠組み
物語において描かれる世界は冒険譚が語られるファンタジーの世界から近未来的な都市空間にまで多岐に至ると考えられます。そしてそれらの多様な世界を舞台とし様々な人が織りなす物語が展開されていきます。私たち(読み手)はこれらの世界に文字、或いは視覚的聴覚的な感覚に訴えかける媒体を通して触れていきます。
物語の定義は多義的なものであり、その定義を明確化することは難しいと考えますが、ここでは近代の文学・オペラ等から今日におけるメディアカルチャーに至るまでのある種の娯楽性を孕みながらも、異なる世界で展開される人々が織りなすさまざまな事柄について語ったものを主題とし、先ほど挙げた「思考の箱」と絡めつつ話を進めていきたいと思います。
ちなみに物語の辞書的な意味としてはこれらのような意味を指します。
ものがたり
名](スル)
1さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。「世にも恐ろしい―」
2特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。また、その話。「湖にまつわる―」
3文学形態の一。作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した散文の文学作品。狭義には、平安時代の「竹取物語」「宇津保物語」などの作り物語、「伊勢物語」「大和物語」などの歌物語を経て、「源氏物語」へと展開し、鎌倉時代における擬古物語に至るまでのものをいう。広義には歴史物語・説話物語・軍記物語を含む。ものがたりぶみ。
4歌舞伎・人形浄瑠璃の演出の一。また、その局面。時代物で、立ち役が過去の思い出や述懐を身振りを交えて語るもの
再び物語の枠組みへと話を戻したいと思います。さて物語について語るうえで、おもにそこで展開される出来事が人の愛憎であるだとか、悲哀などの感情にまつわる事柄である以上、読み手の感情移入がそこで起こりうることについては触れておきたいと考えます。
物語ではしばしばそこで語られる出来事が悲劇、或いは喜劇などある種のカテゴリーに分類されることが見られるかと思います。そしてこれらの分類を可能とするのは往々にして物語に触れたときの読み手の反応、或いは分類者の持つ恣意的な基準(枠)であると考えます。
しかし、どちらにせよ。作者以外の人間がそれらに触れたとき共通して抱く感情、或いは描かれる事象に対しての一般的な判断が存在するということから、喜劇・悲劇などの枠組みが存在することが可能なのだと私は考えます。
では、なぜ共通してある感情を抱くことがあるのでしょうか。これに触れていくためにはまず先だって現実において、私たちが他者のある出来事に際したときに何故特別な感情
を抱きうるのかということからふれていきたいと思います。
- 現実では
現実において私たちが他者の悲劇と言える状況に際したとき、抱く感情は人それぞれでしょうが、ここではおよそ悲劇にあったものとそれに関与するものたちに対して抱く同情の念等を主として取り上げていきます。
同情の念とはまずどのようなことか
同情
名](スル)他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。「―を寄せる
同情の念というものについて思索を巡らせるうえで、まずこの辞書的な意味から見ていきます。まずここで云う 他人の身の上になって、その感情を共にすることとは 他が感じる痛みを我がものとして思い、そのような境地にある他者に対して何らかの思いを寄せるという意であると考えてよいと思います。
しかし、他者の痛みを我がものとして感じるということは改めて考えてみるなら、幾らか奇妙なことであるように思えます。
私たちが感情などの始まりを振り返るときに、それらは過去において何らかの状況、つまり過去の経験と結びついていることがあるはずです。過去に自身が悲劇を体験していたなら、それと同じような状況に他者が置かれた場合に自身の過去を振り返るとともに、今の他者の心境を自身の過去の体験を指標とし読み取ろうとするはずです。この過程があってこそ。他が痛みを我がものとして捉えるという行為が可能となるのです。ここでは自身の過去の経験を枠として他者の心情を押して図ることが可能となっているのです。これは内的な経験に基づいた推測であるといってよいものでしょう。しかし、物語における悲劇ではしばしばそのような体験をしたことがないものにとっても、彼らの心情を図ることがなされているように思えます。しかしここで同情の念が起こるのはある大きな枠組み、事象への推論を可能とするものがあるからであると考えます。
先程の現実の例を挙げるならば、同情は自身の過去の体験を枠として他者の感情を推測し、同情の念を抱くことが可能となります。
この例を当てはめて考えるとするならば、物語における同情(それらの経験を持たないものも含めて)でも何らかの枠が存在すると仮定いたします。
これが物語における枠(思考の箱)と定義します。
内的な経験を持たない以上 それらの枠は普遍的な性質を持ちつつ人々に事象への推論を可能とするものであるはずです。そして普遍性は個々の面してきた内的経験の集合 分析 捨象によりある程度の一般性を付与できると考えます。
そして一般化された枠組みを用いて事象への推論を立てていくのです。内的経験として経たことがない悲劇への同情もこの過程をへてなされると考えます。
以上のことがらが成り立って初めて物語世界への同情の念が発生するのであるとここに仮定します。
我々は「思考の箱」の内において、物語における文脈を理解しうると仮定いたします。
「思考の箱」猫撫ディストーションより
ここまでで他者の感情を枠組みをもってして理解するまでの過程を説明してきました。ではここでもう一度猫撫ディストーションでの「箱」について言及していきたいと思います。
七枷 樹はあの日以来家族を自身の枠組みで理解できない異質のものとしてそれを観ないように心掛けてきました。何故なら、そこにある家族は以前自身の理解の範疇にあったそれとは異なるものとなってしまったからです。
ここにおいて着目するべきは七枷樹はこれより以前において「家族」というものが理解しがたいもの、ましてやそれを「箱」としてなど捉えることはなかったはずです。そのなかに自身が放り込まれているとき、認識に関わる大きな枠組みの存在を意識することは難しいのではないかと考えます。
「思考の箱」において物語に触れるということ
ここまでのことから現実においてもこれらの「思考の箱」は存在するものであると私は仮定いたします。同じく物語の世界においてもそれが此岸からこちら側へ働きかけるものである以上は「思考の箱」を共有しているものであると考えます。では双方において枠組みをもって事象を見ることにより起こりうることがらについて少し考えていきたいと思います。
まず、現実における箱は社会的な交流のもとに合成された産物であると仮定します。ある事柄を理解するための大きな枠組みという機能を持つ以上はそれはその機能を果たす集団を横断するものでなくてはならないだろうという推論のもとから以上のように考えました。
しかし、現実においてこれらの枠組みは時に機能しないことが起こりうるでしょう。何故ならこの枠組みはある程度社会の構成員の内的体験を般化したものであるからです。この時において、私たちは幾らかその枠の外において事象を見ることを予断なくされます。すると、今まで自身が見ていた枠組みから放り出されるとともにそれを俯瞰的に見ることが可能となるのです。次に私のなかにおいて、それらの機能不全が確認されるとそこの部分において何らかの再構築がなされるはずです。何故なら、状況に際した際に判断に関わるこれに機能不全が生じているなら、それは現実的な損害に直結する可能性が出てくるからです。そして次ぐにこの箱の機能不全が起こりうる事態がその社会集団において散見されるようになってきた時に、「思考の箱」の再構築は個人的な領域を超え社会全体を貫くものとなっていくと推測します。ここでの結論として社会的な産物と言える「思考の箱」はこのような事態に直面してきた際に、その構造の変化は余儀なくされ連続的な変化を遂げてきたのではないかと考えます。つまり機能不全は個々人の内的な経験により補完されてきたものといってもよいでしょう。
では物語においてはどうでしょうか。確かに物語においても大きな枠組みの変化は見られると思います。それが時代と共にある文化的な領域を担うものである以上そのようになると推測いたします。しかし、先ほど述べたように従来の「思考の箱」のおいて理解できない事象に際した際の個人レベルでの変化は起こりうるのでしょうか。
結論から書かせていただきますと、物語におけるイレギュラーは例え理解されずとも、自身の実害(社会的なもの)に繋がることが少ないことからあまり「思考の箱」の変化は起こらないと考えます。
何故物語におけるイレギュラーは「思考の箱」の変化を急に促すことはないのか
それは読み手の態度にも関わるものであるだと考えます。私たち読者は物語を読むときに、自身を主体として客体である物語を読むという構造で把握すると思われます。それはあくまで物語は娯楽性を持ち消費するものであるという感覚がつきまとっているからだと仮定いたします。すると、それが消費と自身の楽の充足を目的とするものなら、私たちはそれを自身の意思で突き放すことができます(或いは突き放されたと感じるかもしれません)。あくまで、それが自己の充足を目的とするものならば、「思考の箱」の変化は緊急性を要するものとはなりえないと推測します。
しかし、現実での「思考の箱」の機能不全は実質的な損害にも繋がりうることです。その上不理解な事態を突き放すことが可能であるとは限りません。その時に理解されるべきである状況は私たちに対して主体ともなりうるのです。この構造が「思考の箱」の変化を促していると考えます。
まとめ
ここまでで内的経験と社会的な交流によりもたらされる「思考の箱」と物語の関係性について触れてきました。物語をひとつの主体性をもった経験として受け入れる。それを実行するには幾らかの困難が伴うように私には思えました。そして
枠組みに対し自覚的になることにもひどく困難が伴う。
ここまで駄文・長文?に付き合ってくださりありがとうございました。
猫撫ディストーション 雑感
猫撫ディストーション始めました。
はい。先日から猫撫ディストーションをプレイし始めましたが、共通と思われるパートが終わったので。それを踏まえての雑多な所感をここでまとめていきたいと思います。
はじめに言葉があって 七枷琴子 引用①
これはご存知のかたもいらっしゃると思いますが、かの有名な聖書の文言に関わると思われるセリフの一つですね。本ゲームではまずこの文言より物語が始まります。
・物語と言葉
- 物語とは文字に限らず、何らかの情報伝達媒体を以って紡がれるものです。これに関しては先日の記事でも記しましたが、個人の想い 内的経験による部分が言語には確かに存在します。そしてこれは大きな枠組みにおいて理解できるものではありません。彼らが見てきた世界・経験を彼らの口から知り、同じ地平に立とうとする意思が必要となると考えます。そしてこの物語もまた言葉から世界が始まるのです。
家族とは
家族という枠組みはこのゲームでは頻繁に見られる言葉であると思います。この一つの枠組みとそれに類する人に対し、主人公はかたくなに目を背けてきました。彼は何故それに対して目を背けてて、かたくなに観るまいとしてきたのか。ここではそのことについて
言及していきたいと思います。
いつのまにか その中に放り込まれて
七枷 樹 引用②
これは七枷 樹が何をも観ていないとき。灰色の世界で生きていたときに漏らした言葉です。これは彼がこの時に、家族というものを制度的な枠としてしかとらえていないことに起因すると考えます。家族とはその意味において非常に多義的かつ、それについての定義を明確化することはここでの目的ではないために割愛させていただきます。
彼は母も姉も父も自身には理解できないものであるとしてそれを観ないように心掛けていました。そして理解できないものであるからこそそれと話すこともない。理解できないもの 何故それが理解できないという感情が生じるのか。それは情報の提示不足が原因であると思われます。人と人とが何らかの対話的な関係を構築する際に必要とされるもの それは何らかの合意であると考えます(これについては前回の記事で言及しております)そして合意が成立するうえでお互いがどこに位置し何を持つものであるか などの基本的な情報が必要であると考えます。彼の場合では、それが圧倒的に不足していました。生まれてすぐになる家族だった場合、その時から家族のこと自身の経験を以って認識していきます。経験の過程で彼らの情報は提示され、情報と日常見られる彼らの生活の姿はその人にとっての「言葉」の世界において密接に結びつき、一つの像を描きます。ここにおいては、彼にとっての母が母であることは経験が保障しているとされるものです。ここには確かに時間的(経験)に保障された言葉と像の結びつきが見られると考えます。しかし本編を見る限り彼の家族との過去は流れ星の日を境にひとつの断絶が見られます。そこにある「家族」はただ「母」などの制度的な名により保障されたものでしかないのです。時間的な共通軸を持たないから、彼は観るのをやめたのかもしれません。
- この言葉を本ゲームにおける最初の文言と照らし合わせてみます。言葉は私たちが生まれたときから、世界と共にあるものです。そして私たちは周囲の世界の言葉を通して世界を認識していきます。これは恐らく人が人として世界を認識するためには避けては通れない過程であると思います。そして周囲の世界での言葉を聞き、言葉と世界を結び付けていきます。これは本ゲームにおいて言葉を用い認識を共有する過程と性質からして同じとされるようなものであると思いますが、生まれたときから共有を同じくすることが必要とされるようなことがある集団、家族とはそのような社会的集団としての側面も孕むと思います。そして樹はそれを放り込まれた箱のようなものとして捉え、それに対し否定的な感情を抱いているように思えました。
家族 時間的なそれ
七枷 樹の世界において家族という言葉とその像は結びつきを持ちませんでした。彼にとってあの日以来の家族はただ家族であるがゆえに家族であるという同語反復めいたものであったのかもしれません。何故なら内的経験による意味が自身のうちで保障されていない場合、認識のフレームは社会的に形成された大きな枠組みに頼るほかありません。七枷樹が放り込まれたのはそんな世界でしょう。
新しい世界
琴子の死後、灰色の世界で生きてきた彼は数年後流れ星を再び見たときにまた琴子と出会うことになります。ここにおいて琴子は「また 私を観てくれたから」といいます。しかし先ほどの場面でも取り上げられた「観る」ということはどのようなことなのでしょうか。
これについて触れていきたいと思います。先ほどの世界で樹はその意思を以って世界を観ることを受け入れられなかったからです。それは琴子の死という耐え難い現実からの逃避であるかもしれませんし、或いは目の前にある彼らを共時的な感覚でとらえることができなかったからが故であるかもしれません。しかしどちらにおいても彼はその世界を受け入れず拒絶したが故に観ることを止めたのです。
観るとは意識を以ってし、それに向き合うこと
ここにおいて見るとは何らかの主体性を伴った意識を以って世界と向き合うことではないだろうかと考えます。
「私たちは家族だ」
家族というものは先ほど述べたようにある枠組みにおいてそれを捉えるなら、それがそれであるが故にそうあるものと考えてよいかと思います。それがそれであるが故にそうある状態はある社会的集団において自明のものとされていることがあります。生得的に家族となった場合、そこにおいて彼らの関係が「家族」という言葉に始まったとされることは彼らのうちにおいて自明のものとされるが故にその言葉が口に出されることはあまりないかと思います。
しかし、この物語でそのような言葉が用いられることはそれが持つ不確かさを示唆するものであると考えます。共通ルートにおいて彼らは互いが「私たちは家族である」ということの呼応を行うことによって言葉によった関係性の不確かさを補っているかのようにも見えました。また家族であると確認する行為はそれと同時に他者の領域も措定する行為でもあると考えます。他者を他者として捉え(認識の外に置く)家族という世界を固定する、この呼応にはそのような意味合いも込められているのではないかと邪推いたしました。
とりあえず感想みたいなもの
全体として共通ルートにおいては個別ルートで展開されるそれぞれのヒロインのテーマ性のようなものを示唆しつつ、七枷家とその周辺を描いていくような流れでした。やはり作品の随所において哲学的な思想と思われるものや量子力学に関する言葉と思われるものも散見されました。しかし、それらの要素に触れずとも各々のキャラクターが魅力的なため キャラゲーとしても案外楽しめるのではないかと思ったり思わなかったり。共通についてはまた考えが纏まり次第適宜修正を加えていく次第です(或いは別の記事としてまとめみたいなものを書くかもしれないです。