猫と月の廃墟

備忘録みたいなものです。

赫炎のインガノック 考察みたいなもの

まずは簡単な評価から
世界観20/20
シナリオ17/20
キャラクター17/20
音楽19/20
グラフィック17/20

シナリオ
とても良かったですね。好みが分かれる作品であるとは思いますが、伝わってくるメッセージの力強さと独特の世界観と物語は一読の価値があるものであると思います。
また、作品の随所で繰り返される独特の表現が癖になります(好みが分かれる点でもあると思いますが
音楽
素晴らしいの一言です。
グラフィック
ここも好みが分かれる点であると思います。しかし、大石竜子先生により描かれた絵本などの寓話を想起させる絵柄は作品とマッチしており、作品の世界観を表現するうえでも一役買っているように感じました。FVR版の場合はリメイク版であるため新規CGと旧CGの絵柄がかなり異なるという点は留意しておくべきだと思いました。
キャラクター
アティが最高にツボでした。アティのえっちしーんは本当に最高だったと思います。ほんと筆舌に尽くすレベルでした。あとケルカンも良いキャラしてました。

総括
総合として、人を選ぶ作品ではあるものの、全体として高い水準にまとまっており一読の価値はある作品だと思いました。

以下考察のようなものをだらだらと書き連ねています。

赫炎のインガノック 考察みたいなもの
物語と私たち
物語とは広義の意味としてある物事について語ったお話のことを指す。そこにおいて語られる物語は悲劇・喜劇など多岐に渡るものであるでしょう。では私たちはいかにして物語に触れるのか。始まりはそもそもの好奇心であるかもしれません。私たちはそれに何らかの念を抱き物語にふれるのです。しかし、物語のうちで生きるキャラクターはあくまで私たちとは異なる世界・時間を生きるものです。そんな世界で生きる彼らの姿は時に私たちの目には異質なものとして映るかもしれない。ここにおいて、私たちはその物語から突き放される。物語の内にあるのは本質的な他者性なのです。
・物語における『祈り』
では、なぜ他者たる物語に涙するのか。それは物語に対しての祈りがそこにあるからだと考えます。他者が他者たりえる理由、それは彼らのことは知らないからである。知らないがゆえに恐怖し、知らないが故に距離をとる。しかし、ふと物語に目を向けるとそこにおいて他者は往々にして悲劇的な境遇に置かれていることがある。ここで初めて他者は私の中で異質な存在から悲劇的な立場におかれたキャラクターとして理解される。そして彼らの境遇にふと思いを馳せる。彼らが抱えるのは「耐えがたい現実」だ。それは時には自身の現実とオーバーラップされ、やがて彼らへと感情移入していくこととなるかもしれない.そして、私たちが見出した圧倒的な他者性はもうそこにはありません。そのものの成り立ち、キャラクターで言うところのバックボーンが理解された時にそれは他者ではない私に関与するものとなるののです。
物語における「祈り」
私たちは他者ではない誰かが耐え難い現実・苦難を抱えているときにどのような感情を抱くだろうか。恐らくそのときに抱きうる感情のひとつとして考えられるものは同情であると思います。
この同情という感情は他が痛みを自身のうちで理解されているが故に生じる感情でしょう。他が痛みを自身のものとして捉えるという行為。これは先ほど記したようにキャラクターの他者性・異質さが消えることにより可能となります。この段階において私たちは展開される物語に没頭し、そこでの悲劇に対し何らかの念を抱くようになるのだと私は考えます。
更に同情の念の先にあるものについて触れていきたいと思います。同情の念が生じた時に、彼らの耐え難い現実が良きものとなるようにと遥か彼方遠方にある理想を夢見て願うことはないだろうか。このような行為は何かの実現を願うという性質から「祈り」であるとします。
祈りとは耐え難い現実であるなどの苦難に際した時に、今のような現状ではなくこうあってほしかたという一種の願望のようなものを自身より大きなものに仮託する行為であると考えます
これは自身が苦難に際した時は勿論のことながら、他が苦難に際した時にも行われる行為であると考えます。では他者への祈りを可能とするもの何か?それは同情であるはずです。他が痛みを自己のものとして捉えそれを苦痛と感じるからこそ、「祈り」は起こりうるのです。
以上のことから、物語における「祈り」はバックボーンの把握、他者性の喪失、同情という一連の過程を経て起こりうるものであるとここに定義します。



・しかしあくまで遠方に聳える彼ら
物語のキャラクターはそれが理解された時、私たちにとっての他者ではなくなる。しかし彼らは私たちとは異なる時間 世界を生きる者たちだ。私たちはどんなにその手を伸ばそうと彼らに私たちの手が届くことはない。私たちはそこでただ祈り、異なる世界を生きるものに成り行きを任せるほかない。祈りはあくまでその場に立ち止まる行為だ。
・インガノックにおける祈り
ここで本題に入ります。この作品赫炎のインガノックは全12章構成で各章サブキャラを交えたオムニバス形式をとっております。この赫炎のインガノックのインガノックは分岐√が存在しない一本道ゲーにカテゴライズされるものでありますが、その一方で正しい選択肢を選択することにより物語が先へ進むという一見矛盾した構造を孕んでいます。ここでは先ほどの「祈り」を踏まえつつこの構造に言及していきたいと思います。

さて、この赫炎のインガノックは先ほど述べたように正しい選択肢を選択することにより物語の先へと進める構造となっております。加えてこの正しい選択肢はゲームパートをクリアすることにより現れる仕掛けとなっております。
ここでゲームパートとはどのようなものか軽く説明を加えておきたいと思います。
ゲームパートにおいてその章毎にストーリーに関わるキャラがシルエットとして示され、そのキャラにカーソルを合わせクリックするとそのキャラクターにまつわる過去の記憶が明かされていきます。そしてこれを正しい順番で行った時にかの「右手を伸ばす」という選択肢が現れるのです。
これでゲームパートがどのようなものであるかが明晰化されました。ではこれが物語の進行に関わってくるということは如何なる意味を持つのでしょうか。まずこのシステムは他のエロゲにおいては物語における会話の最中で明かされることになるキャラのバックボーンなどの情報を開示するという役割を担っています。ここで開示される情報は「祈り」に至るまでの過程での他者性の喪失において非常に重要となってくる部分でもあります。つまりこの物語を進行するうえで「祈り」という所作の過程は初めからしてシステムに組み込まれている。つまり「祈り」なくしてこの物語は成り立たないのです。
インガノックにおける「祈り」の困難さ
赫炎のインガノックのゲームパートは私の所感でありますが、難しいものであると思います。正しい順番で選ぶことができなければ、選択肢は現れずゲームオーバーとなってしまいます。これは時にプレイヤーの意思を挫くに十分なものであるでしょう。しかし、私たちが諦めた時、物語はそこで終わり耐え難い現実を抱えたインガノックの住人が救済されることはなくなります。ここで私たちの「祈り」は試されていると言ってもいいでしょう。故にインガノックは「祈り」なくして成り立たない物語であるとここに仮定します

「右手を伸ばす」ということ

この作品赫炎のインガノックにおいて、「手を伸ばす」という行為は随所で見られる。

右手を、伸ばす 前へ。
赫炎のインガノック 一章 抜粋

これは本作においても印象に残る第一章のポルシオン顕現のシーンだ。これは桜井光作品での一つの特徴としても挙げられる何度も繰り返される演出、所謂テンプレ戦闘である。
これ自体がある種の意思の強さ、メッセージ性を孕んでいるようにも思えますが、ここで着目するべき点はもう一つあるように思えます。それは 右手を伸ばすという行為が誰によるものであるか明確に言及されていないということです。そのまま文脈を読み取るならそれは主人公であるギーが伸ばした手であると考えられます。しかし、それと同時にここではポルシオンもそこでその手を伸ばしているのです。

ギーの右手は動いていない。繋がれて。けれど、右手は伸ばされた
赫炎のインガノック 1章 抜粋

そう。右手はあくまで伸ばされたものであるのです。ここではこの「伸ばされた」という表現に注意していきたい。伸ばされたという表現 これは受動的な表現であると言えます。伸ばされたのはギーから見て客体となるポルシオンの手であるといってよいでしょう。しかし、この表現はポルシオンとは何か、それについて言及するとまた違った意味合いを持つようになります。

・ポルシオンとは何か

君には時間の概念は存在しない。なぜなら、現在の君は、この世に生まれてすらいないからだ。           赫炎のインガノック 最終章 抜粋

これはゲームにおける記録者の役割を担うものから語られた言葉です。
ここの部分はポルシオンとは何かについて語るうえで核心的な部分と成りえます。まず時間の概念が存在しないという表現はどのような意味を持つのでしょうか。
本作において奇械は10年前の崩落事故によってこの世を見ることさえあたわずに亡くなった41人の子供たちの可能性としての姿であるとされています。そしてレムルレムルが言うように可能性としての存在であるからこそ、彼らは強いのです。彼らは生まれてすらいない。故に彼らはこの世界にはカタチとして存在せず、無時間的な存在であると言えます。それがここにおける時間の概念が存在しないという表現の指す意味であると考えます。そして、ここでのこの表現は奇械ポルシオンを指すものであると考えて良いでしょう。

きみは、果たして何を選択するのか。すべてを知った上で。
赫炎のインガノック 最終章 抜粋

さてこれも同じくポルシオンに語りかけていると仮定された場面です。さてここで 選択と 全てを知った上でというセンテンスに目を向けてみましょう。
都市において全てを知るものはかたちを失った者たちのみであるとされています。しかし、ポルシオンはギーの背後でその世界に目を向け 人々の思いを見てきました。しかし、それはポルシオンだけでしょうか。彼らの声を聴き、その手を伸ばそうとしたのはポルシオンだけでしょうか。プレイヤーもまた彼らの声を聴き、耐え難き現実を目の辺りにしてきたのです。そして同情したが故に彼らのことを思い、祈りを捧げそしてその手を伸ばさずにはいられないのです。また、このインガノックには生まれていないのはプレイヤーも同様です。ここで今までの語りはポルシオンに対してのものであると同時にすべてを見てきた私たちへの語りでもあったということが考えられます。そして、それと同時に先ほどの伸ばされた右手はプレイヤーの意思で伸ばされたものでもあるという可能性が示唆されます。




                        
プレイヤーである私たちが右手を伸ばすということ

前項でポルシオンと私たちプレイヤーの存在にオーバーラップするところがあるという構造が見いだせました。では私たちプレイヤーが右手を伸ばすとはどのようなことを意味するのでしょうか。先ほど述べたように物語における他者は私たちが彼らを理解したときに、他者ではなく私たちに関与するものとなります。しかしあくまで私たちとは異なるセカイに生きる彼らにプレイヤーである私たちができることなど、彼らの未来、明日が良くあるように「祈る」ほかありません。しかしプレイヤーはあくまでその右手を伸ばします。手を伸ばすという行為を選択するということは祈りのその先にあるものであると考えます。祈りが他者を思い、明日を描く静的な性質をもつものであるとするなら、行為は祈りの先にあるものです。何故ならそれは遥か彼方にある夢見た世界=祈りの実現せんとし、行動を起こすことであるからです。
さてここで前項の一節を思い出してみると、 ポルシオン=プレイヤーは未だこの世界に生まれず、可能性としての存在である。そして、可能性であるからこそ、乱数として世界を変革する力を持つ。
ルシオン=プレイヤーという構造を適用させるなら、私たちもこの世界=インガノックには生まれず、その点においては他者である。しかし構造の外にある他者だからこそ、乱数を持ち世界を変革しうる。ここにおいて私たちはその「祈り」を行為へと転化させる余地を与えられたのです。



赫炎のインガノックは祈りの物語か

心よりの想い、そして。願い。それは何よりも尊いのだと大公爵は言った
赫炎のインガノック 心の声
心よりの想いと願い、願うはその意味において「祈る」よりは自己性が強いものであると考えますが、大義においては「祈り」と同じであると仮定します。他が痛みを我が痛みと思い彼らにとって良き明日が実現するように願う。大公爵は他者への想いこそは本質として尊いものであると考えていたのでしょう。


人は尊くあらねばならない
赫炎のインガノック 大公爵
彼にとって尊さとは何であるか。先ほどの言葉と並べて考えるなら、それは他者を思う気持ち、そして、それを持ち合わせるものが尊いものであると大公爵は考えたのかもしれません。

故に己の想いは現象数式実験を成功させ、願いの果てへと至ることができるのだ
赫炎のインガノック 大公爵
なればこそ、大崩落の後、彼は失われた多くの命を思い現象を歪める実験を行った。41人の子らが受けた痛みを自己のものとし、子らにとって良き世界を「祈った」からがためです。自身の想いは心より他者を思った尊いものであると信じたからこそ、彼は行った現象数式実験の成功を信じて疑わなかった。しかし、彼の実験は成功することなく一つの現象を生み出したのです。それが根源存在グリム=グリムなのです。
グリム=グリムとは?
グリム=グリムとは本編において視界を歪めて現れるもの。人々の狂気の証。しかし、それはあくまで数式体、現象数式実験により生まれたものであり、そして、人の願いをかなえるものであるとされています。では都市に顕現したグリム=グリムが叶えた願いとは何か。否、そこにおいて叶えられた願いなどありません。都市において一切の御伽話は排斥され、そこにはただ人々が「現在」を生きる世界だけが残った。では何故グリム=グリムは都市にあるか。それは未だ願いを叶えることなく、願いの果てにてまっているからでしょう。

願いの果てとは
願いの果てとは本作において黄金螺旋階段の頂点、かつて大公爵が捧げた祈りであるとされています。そして、それは本編最終章にて実現されます。ギーがたどり着いた黄金螺旋階段の果て、そこが願いの果てであるとされています。では願いの果てとは何であるか。
それは恐らく大公爵また41人の子供たちひいては都市が願った世界であり明日でもあると私は思います。
そして、この都市も私を夢見た
赫炎のインガノック 最終章

それは噂に過ぎない、もしくは誰かの見る夢か幻だ
赫炎のインガノック 心の声
以上のことから願いの果てとは都市にあるものがその始まりにおいて夢見た明日であり、グリム=グリムは夢見た明日のネガのような存在であると考えます。なればこそ、グリム=グリムは都市の人々を嘲りながらもどこか期待するような目で人々を見るのです。
グリム=グリムは人々の想いの果てをどこか試しているようにさえ取れます。

想いの果てを阻むことはできない
赫炎のインガノック 最終章
さて、先ほどは願いの果てについて言及しましたが、ここでグリム=グリムにより語られる想いの果てとは何か。想いの果てとは何かそれについて言及するためには本作品において想いとはどのような表象を持つか見ていく必要があるように思えます。
心よりの想い(以下略(前項参照)から考えるに、想いとは誰かの痛み・境遇を我がものとして捉え、誰かの良き世界・明日を思うことです。つまり想いとは「祈り」です。
ではその果てとは何か。これについては先ほど述べた一節を挙げつつ考えていきたいと思います。
人は尊くあらねばならない それが願いの果てへ至る道であれば
前文については先ほど述べたように他者を思う気持ちそれを持つものが尊いものであると
では、願いの果てへ至る道であればとは 何を指すか。願いの果ては前述したとおりであります。そしてこの二つの文を結びつけて考えるならば、他者を思う気持ちにより願いの果てへと至ることができるとも取れます。願いの果てに至るまでにギーは数多の命をあきらめることなくその手を伸ばしてきました。故に、願いの果てへと至ることができた。
以上のことを考えるなら他者に対しての想い、つまり「祈り」その先にある「右手を伸ばす」という行為こそが想いの果てであると私は結論付けたい
さて、ここで「願いの果て」と「想いの果て」についての考えを一度纏めたい。
本作において、TRUEとされるENDはポルシオンが生まれたいつか誰かが夢見た世界である。ギーとポルシオン=プレイヤーの想いの果て、諦めずにその手を伸ばした先にあった願いの果てである。そして、そこに至るまでプレイヤーは数多もの心の声を聞き、他者である彼らを受け入れ、彼らを想うがため「祈り」を抱くのだ。しかし、祈りでは足りない。想いの果てである「行為」へと私たちは行きつく。「行為」とは立ち止まることなく明日へと手を伸ばす行為だ。「祈り」があればこそ、その手を伸ばす。そして想いの果てがあればこそ願いの果てへと至り世界を変革することができたのだ。
以上のことから、本作のテーマの一つとして 他者への「祈り」とその先にある「行為」の肯定、そして「祈り」は世界をも変えうる ということがあると考えたい。

プレイヤーは他者ではない
そう、先ほど記したように想いの果てを阻むことはできない。これは私たちプレイヤーに対しての言葉でもあるように感じた。初めに述べたようにプレイヤーは異なるセカイである物語に対してあくまで他者でしかない。しかし、この赫炎のインガノックにおいて私たちの彼ら、物語の住人への「祈り」と「行為」はたしかに世界を変えた。ここにおいて私たちは物語に対しての「祈り」を肯定されたように思える。私たちはあくまで外の住人としてではあるが、確かに彼らの世界に関与し世界を変えた。つまり、何物も「想いの果てを阻むことはできない。」のである。
ここにおいて読み手の物語に対しての「祈り」と「行為」は、その世界の変革を以てして肯定されたとも考えられるでしょう。

最後に
感想の部分にてこのインガノックは強いメッセージ生を持った作品だと記述しました。何故私はこのような感想を抱いたのか?それに関してここまでの考えを踏まえつつ書き綴り締めとさせていただきたいと思います。
この物語において私たちの「祈り」の意思は必要不可欠なものであると述べました。そしてこの「祈り」を持って人々を耐え難い現実から救済することが可能となるでしょう。そう、このインガノックにおいて私たちの「祈り」と「行為」つまり伸ばした右手は確かな意味を持つのです。
そして、作中においても「祈り」と「行為」はその変化と人々の言葉を以てして全肯定されます。
この物語を読み終えた時に、私が感じましたカタルシスは物語世界からの肯定に起因するものであると私は結論付けました。


余談
このインガノックにおいて神話的モチーフにまつわると思われる表現は幾つか見られます。ここではそれについて幾つか触れていきたいと思います。
右手
これは恐らく聖書・キリスト教における神の権威と力を表す右手であると考えられます。そしてここで注目すべきは人の「祈り」から伸ばされた右手が運命を変えているという点です(絶対的な力の象徴としても「伸ばされた右手」は無敗であることから説明がつきます。
黄金螺旋階段
登り切ったのちにポルシオンが命を得てこの世界に生まれたことと戦いを重ね過去(真実)を知るにつれその位相を上がることからここではこれはカバラ思想があてはめられたものであると考えます。カバラ思想(生命の樹)において頂点とされる領域はケテルというものです。これは神そのもの思考や創造をつかさどるものであると言われています(夢見た明日 ポルシオンの受肉 などからあてはまる点があると考えました。
まとめ
まとめるなら神の権威である右手に「祈り」と「行為」という人間の意思によるものを神と同等の力であると見なし、その意思により至る願いの果て(ケテル) で夢見た世界を創造しポルシオンに命をあたえた。ここにおいて赫炎のインガノックを神話的モチーフから見るなら、従来の神話的構造は解体され、意思と行為が新たな神話として描かれる脱構造的なシナリオがそこに浮かび上がってきます。