私とあなた 物語のうちにある対話性について
先日 ノベルゲーにおける他者性の喪失と祈りの全肯定をテーマとし赫炎のインガノックの感想を書きましたが、ここではあそこで言及できなかった「物語」と「対話性」について考えていきたいとおもいます。
物語と現実 その構造
前注意✳︎ここにおいて書かれていることでは論拠に乏しい部分が多々あります。
先日述べましたように私たちの「祈り」は初めに他者に対しての認識の深化を起点として起こりうるものであると考えます。しかし、そもそも何が対しての認識の深化を可能とするのでしょうか。ここではまず物語において存在する私達の彼らへの理解を可能とするものへの言及から始めていきたいと思います。まず現実の世界における理解の定義から触れていきたいと思います。
想像力は真理と、真理を美しく飾るにふさわしい観念とを結びつけるのであり、このことをとおして想像力は、堅固さと魅力とが同居する一つの全体を作り出すのである。
これは哲学者 コンディヤックが著した人間認識起源論での一説であります。これは文学等の芸術作品における真理と想像力との関係性について述べたものです。
この一説に先ほど述べましたフレームの考えを当てはめつつ、物語におけるフレームの働きについて考えていきます。まずここにおける想像力とはコンディヤックが言うには自身が持つ観念のうちからそれらを利用し新しい観念の結びつきを作りだすことです。ここにおいて用いられる観念とはおよそ自己の経験に基づいたものであるでしょう。そしてそれは私たちがフレームを用いても理解できない構造部分であるはずです。何故なら我々が知りうるのは普遍化されある程度共有された枠組みの範疇においてであり、これはあくまでその先にあるものだと今は仮定しておきます。次に真理とは物語と現実において重なる基盤のようなものであると考えます。これはフレームと同義であるものと考えてもよいでしょう。以上のことから考えるに文学等物語を扱う媒体では常に共有されたフレームと個の観念の折衝が存在するのであり、書き手は物語が破綻しない範囲でそれを自身の観念で彩り確固たる全体とするのです。
何故書き手はフレームを必要とするのか
ここからは少し切り口を変えて物語が持つ媒体としての性質について触れていきたいと思います。物語がある時、そこに書き手の固有の観念、或いは何らかの伝えたい意思や思想などは往々にして介在するものであるとあくまで一個人の所感としてここに記します。ではここからは物語がある時、そこには書き手に内在する思想などが介在してくると仮定して話を進めていきたいと思います。
フレームが必要とされる理由としてはメディアとしての物語がもつ特異性について思惟を働かせるならば、一つとしてそれが現実とは異なる世界 のなかで書き手の主張を描くことがあるからです。現実と異なる枠組みをも持ちうる世界でそこに私達が理解可能な枠組みが一つとして見出せなければ、私達はそこの世界にあるものをエイリアン的なものとしか見出せないかもしれません。わけが分からないものが跋扈する異世界に対して、少なくとも私ならば積極的に関与することを望みません。作者があくまで物語を媒体としそれの読み手と理解を欲するなら幾らかのフレームは必要なのかもしれませんね。
ここまでのことを見るなら、物語において枠組みが必要とされる理由としてはある種のコミュニケーション志向的な側面があるのではないでしょうか。媒体において他者と共有する相互理解のための枠組みを必要とする性質は他者にそれが読まれることを前提としているように思えてなりません。
物語とは対話的行為か
さて先程に物語では読み手と書き手の間に成り立つコミュニケーション志向的性質があるとしました。ここでの物語がもつコミュニケーション的性質にぴたりと当てはまるものは対話ではないでしょうか
対話
対話とはその意味において、少なくとも他者との間に成り立つコミュニケーション的行為などという意味を含むことが伺えます。しかし、対話とは単なるコミュニケーション的行為に留まるものではなく、複数間においても成り立つものです。そして複数間における意思の疎通が可能となるためには何らかの共通される原理が必要であるとかんがえます。これは先程述べたフレーム、つまり他者への認識を深化させうる基盤となるものです。これは対話がもつ更なる認識の深化への可能性を踏まえて考えても必要とされるものです。語り合うという行為は最低限の共通認識・対話前の合意をもって成立するのです。
以上のことから物語を読み、私達が無意識のうちに「祈り」を抱いたならば、そこで私達はこの対話前の共通認識 提示されたフレームに意識の外において合意しているのです。何故ならば「祈り」を抱くという行為が他者に対して成立することはほとほとありえないからです。物語において提示された情報(フレームなど)を認識し、彼らが自身とある部分において枠組みを共有していることに合意したからこそ、「祈り」は生じるのでしょう
逆に合意不成立の場合、私達はその物語を拒絶する可能性が極めて高いかと思います。(そこで描かれる人々の姿はエイリアン的であるために)これは俗に云う「この話は合わない」であるなどの言説に関わる領域であると考えます。
話を戻します
対話のその先へ
まず対話的行為が行われるために暗黙の合意とされる領域があることは先程確認いたしました。ではこの領域が確認された後ほど対話は何を目的としてなされるのでしょうか。合意は確かに認められました。しかし、お互いの領域において未だ秘匿されている領域、これをここにおいて未知領域であると定義します。これは両者の間で共有 提示されていない情報領域のことを指します。それは物語においては読み手に考察の対象とされる部分、つまり書き手の観念や思想が如実に現れた部分がそれであると考えられます。しかし私達は物語を通して書き手との対話を図る際に、一つの苦労を強いられます。なぜなら、そこに書き手の思想を読み取るに十分なフレームは存在しないと考えられるからです。これは個人の思想とはある程度内的経験に由来する言葉の意味で彩られる領域であるからです。それら内的経験に起因する領域を読み取る絶対的なフレームはフレームのその特性上存在しないと考えてよいでしょう。他者の考え 世界を理解するにはそれ相応の労力が予想されるかと思います。
対話は苦しい?
しかし、ここで自身の読書遍歴などを振り返ってみると私がこの対話にあてはまるような行為を行ってきたことは殆どなありません。先程記したように、対話にはそれ相応の労力が予想されます。そこにおいては幾らかかの知識が求められることさえあるでしょう。さてここで労力を割かれるであろう対話と共有されたフレームに従い物語を消費する前対話的な行為とを天秤にかけます。傾くかのは右か左か どちらでしょうか。
対話はセカイを開く
先ほど物語との対話において一番問題とされる領域は内的経験に由来した言葉に彩られた思想であると確認いたしました。これから描くのはそれが理解された場合、可能性の世界の話です。可能性としてその思想が理解されたとしましょう。もしそこに新たな理解が生じたならば、そこにまた何らかのフレームが生じたはずです。しかし、このフレームはここまでに触れてきたフレームとはその性質からして異なるものであると考えます。先ほどまでのフレームはあくまで他者と共有された理解の枠組み、つまりコミュニケーション志向で生み出された社会的な産物であるとさえ言ってよいでしょう。しかしここにおいて獲得したフレームは誰もが届きうる世界ではありません。対話が他者の理解できない領域さえ含むものであるならば、そこには何らかの苦痛が生じるでしょう。そこで出会った思想の異質さから目をそむけたくなるのもまた事実でしょう。ここで苦痛のうえに自身の世界で理解しえたものは他者の思想であるでしょう。これはただ自己の領域においておこりうるものでそこに多数による絶対性の保障は存在しません。しかし、そこで得たものは確かにいままでの自身の世界にはなかったものです。物語による対話を通してさらなる他者性の合意と認識の深化がなされうる。そしてこれは私たちのセカイを開くものであるかもしれません。勿論それはほかにもたくさん。何故なら物語は人の数ほど存在し、それはその人の言葉で彩られたものであるからです。
ここまで益体もない話をダラダラと書き綴ってきました。此処まで読んでくださりありがとうございました。
(今だ自身のうちで整理しきれていない部分も多々あるため後々修正を加えることがあるかもしれませんが、ご容赦の程お願い申し上げます。)