猫と月の廃墟

備忘録みたいなものです。

思考の箱

 

思考の箱

はい どうも。こんにちは こんばんは 或いはおはようございます。 今回は前回の記事(猫撫ディストーション雑感)よりある事柄への推論を成り立たせるための「思考の箱」について考えていきたいと思います。いつものように論拠なしの思考を延々と垂れ流す記事ですが、見てくださると嬉しいです。

 

いつのまにか その中に放り込まれて 

七枷 樹  猫撫ディストーション

 

これは前回の記事においても引用した文ですが、ここでもう一度示しておきたいと思います。さて 示されたこの言葉に目を向けていきたいと思います。ここでの言葉は七枷 樹がある事件が起こった日のあとから、依然は繋がりを感じることができた家族が自身にとって未知のエイリアンであるように思われた時に、自身が今置かれた環境をまるで知らず知らずのうちに箱の中に放り込まれた存在であると感じたことから口をついた言葉です。

 

さてこの知らず知らずのうちに「箱」のなかに放り込まれたという彼の心情の例えは物語、ひいては広義における思考が介したものを私たちが理解する際に用いる枠を理解するうえで役に立つと考えます。

 

再考 枠組み 

 

枠組みに関しては前々回の記事で触れましたが、自身の思考を整理するうえでももう一度再考したいと考えます。

 

枠組み

物語において描かれる世界は冒険譚が語られるファンタジーの世界から近未来的な都市空間にまで多岐に至ると考えられます。そしてそれらの多様な世界を舞台とし様々な人が織りなす物語が展開されていきます。私たち(読み手)はこれらの世界に文字、或いは視覚的聴覚的な感覚に訴えかける媒体を通して触れていきます。

 

物語の定義は多義的なものであり、その定義を明確化することは難しいと考えますが、ここでは近代の文学・オペラ等から今日におけるメディアカルチャーに至るまでのある種の娯楽性を孕みながらも、異なる世界で展開される人々が織りなすさまざまな事柄について語ったものを主題とし、先ほど挙げた「思考の箱」と絡めつつ話を進めていきたいと思います。

 

ちなみに物語の辞書的な意味としてはこれらのような意味を指します。

ものがたり

名](スル)

1さまざまの事柄について話すこと。語り合うこと。また、その内容。「世にも恐ろしい―」

2特定の事柄の一部始終や古くから語り伝えられた話をすること。また、その話。「湖にまつわる―」

3文学形態の一。作者の見聞や想像をもとに、人物・事件について語る形式で叙述した散文の文学作品。狭義には、平安時代の「竹取物語」「宇津保物語」などの作り物語、「伊勢物語」「大和物語」などの歌物語を経て、「源氏物語」へと展開し、鎌倉時代における擬古物語に至るまでのものをいう。広義には歴史物語・説話物語・軍記物語を含む。ものがたりぶみ。

4歌舞伎・人形浄瑠璃の演出の一。また、その局面。時代物で、立ち役が過去の思い出や述懐を身振りを交えて語るもの

 

再び物語の枠組みへと話を戻したいと思います。さて物語について語るうえで、おもにそこで展開される出来事が人の愛憎であるだとか、悲哀などの感情にまつわる事柄である以上、読み手の感情移入がそこで起こりうることについては触れておきたいと考えます。

 

物語ではしばしばそこで語られる出来事が悲劇、或いは喜劇などある種のカテゴリーに分類されることが見られるかと思います。そしてこれらの分類を可能とするのは往々にして物語に触れたときの読み手の反応、或いは分類者の持つ恣意的な基準(枠)であると考えます。

 

しかし、どちらにせよ。作者以外の人間がそれらに触れたとき共通して抱く感情、或いは描かれる事象に対しての一般的な判断が存在するということから、喜劇・悲劇などの枠組みが存在することが可能なのだと私は考えます。

 

では、なぜ共通してある感情を抱くことがあるのでしょうか。これに触れていくためにはまず先だって現実において、私たちが他者のある出来事に際したときに何故特別な感情

を抱きうるのかということからふれていきたいと思います。

 

  1. 現実では

現実において私たちが他者の悲劇と言える状況に際したとき、抱く感情は人それぞれでしょうが、ここではおよそ悲劇にあったものとそれに関与するものたちに対して抱く同情の念等を主として取り上げていきます。

 

同情の念とはまずどのようなことか

同情

名](スル)他人の身の上になって、その感情をともにすること。特に他人の不幸や苦悩を、自分のことのように思いやっていたわること。「―を寄せる

 

同情の念というものについて思索を巡らせるうえで、まずこの辞書的な意味から見ていきます。まずここで云う 他人の身の上になって、その感情を共にすることとは 他が感じる痛みを我がものとして思い、そのような境地にある他者に対して何らかの思いを寄せるという意であると考えてよいと思います。

しかし、他者の痛みを我がものとして感じるということは改めて考えてみるなら、幾らか奇妙なことであるように思えます。

 

私たちが感情などの始まりを振り返るときに、それらは過去において何らかの状況、つまり過去の経験と結びついていることがあるはずです。過去に自身が悲劇を体験していたなら、それと同じような状況に他者が置かれた場合に自身の過去を振り返るとともに、今の他者の心境を自身の過去の体験を指標とし読み取ろうとするはずです。この過程があってこそ。他が痛みを我がものとして捉えるという行為が可能となるのです。ここでは自身の過去の経験を枠として他者の心情を押して図ることが可能となっているのです。これは内的な経験に基づいた推測であるといってよいものでしょう。しかし、物語における悲劇ではしばしばそのような体験をしたことがないものにとっても、彼らの心情を図ることがなされているように思えます。しかしここで同情の念が起こるのはある大きな枠組み、事象への推論を可能とするものがあるからであると考えます。

 

先程の現実の例を挙げるならば、同情は自身の過去の体験を枠として他者の感情を推測し、同情の念を抱くことが可能となります。

この例を当てはめて考えるとするならば、物語における同情(それらの経験を持たないものも含めて)でも何らかの枠が存在すると仮定いたします。

 

これが物語における枠(思考の箱)と定義します。

内的な経験を持たない以上 それらの枠は普遍的な性質を持ちつつ人々に事象への推論を可能とするものであるはずです。そして普遍性は個々の面してきた内的経験の集合 分析 捨象によりある程度の一般性を付与できると考えます。

 

そして一般化された枠組みを用いて事象への推論を立てていくのです。内的経験として経たことがない悲劇への同情もこの過程をへてなされると考えます。

 

以上のことがらが成り立って初めて物語世界への同情の念が発生するのであるとここに仮定します。

 

我々は「思考の箱」の内において、物語における文脈を理解しうると仮定いたします。

 

「思考の箱」猫撫ディストーションより

 

ここまでで他者の感情を枠組みをもってして理解するまでの過程を説明してきました。ではここでもう一度猫撫ディストーションでの「箱」について言及していきたいと思います。

 

七枷 樹はあの日以来家族を自身の枠組みで理解できない異質のものとしてそれを観ないように心掛けてきました。何故なら、そこにある家族は以前自身の理解の範疇にあったそれとは異なるものとなってしまったからです。

 

ここにおいて着目するべきは七枷樹はこれより以前において「家族」というものが理解しがたいもの、ましてやそれを「箱」としてなど捉えることはなかったはずです。そのなかに自身が放り込まれているとき、認識に関わる大きな枠組みの存在を意識することは難しいのではないかと考えます。

 

「思考の箱」において物語に触れるということ

 

ここまでのことから現実においてもこれらの「思考の箱」は存在するものであると私は仮定いたします。同じく物語の世界においてもそれが此岸からこちら側へ働きかけるものである以上は「思考の箱」を共有しているものであると考えます。では双方において枠組みをもって事象を見ることにより起こりうることがらについて少し考えていきたいと思います。

 

まず、現実における箱は社会的な交流のもとに合成された産物であると仮定します。ある事柄を理解するための大きな枠組みという機能を持つ以上はそれはその機能を果たす集団を横断するものでなくてはならないだろうという推論のもとから以上のように考えました。

 

しかし、現実においてこれらの枠組みは時に機能しないことが起こりうるでしょう。何故ならこの枠組みはある程度社会の構成員の内的体験を般化したものであるからです。この時において、私たちは幾らかその枠の外において事象を見ることを予断なくされます。すると、今まで自身が見ていた枠組みから放り出されるとともにそれを俯瞰的に見ることが可能となるのです。次に私のなかにおいて、それらの機能不全が確認されるとそこの部分において何らかの再構築がなされるはずです。何故なら、状況に際した際に判断に関わるこれに機能不全が生じているなら、それは現実的な損害に直結する可能性が出てくるからです。そして次ぐにこの箱の機能不全が起こりうる事態がその社会集団において散見されるようになってきた時に、「思考の箱」の再構築は個人的な領域を超え社会全体を貫くものとなっていくと推測します。ここでの結論として社会的な産物と言える「思考の箱」はこのような事態に直面してきた際に、その構造の変化は余儀なくされ連続的な変化を遂げてきたのではないかと考えます。つまり機能不全は個々人の内的な経験により補完されてきたものといってもよいでしょう。

 

では物語においてはどうでしょうか。確かに物語においても大きな枠組みの変化は見られると思います。それが時代と共にある文化的な領域を担うものである以上そのようになると推測いたします。しかし、先ほど述べたように従来の「思考の箱」のおいて理解できない事象に際した際の個人レベルでの変化は起こりうるのでしょうか。

 

結論から書かせていただきますと、物語におけるイレギュラーは例え理解されずとも、自身の実害(社会的なもの)に繋がることが少ないことからあまり「思考の箱」の変化は起こらないと考えます。

 

何故物語におけるイレギュラーは「思考の箱」の変化を急に促すことはないのか

それは読み手の態度にも関わるものであるだと考えます。私たち読者は物語を読むときに、自身を主体として客体である物語を読むという構造で把握すると思われます。それはあくまで物語は娯楽性を持ち消費するものであるという感覚がつきまとっているからだと仮定いたします。すると、それが消費と自身の楽の充足を目的とするものなら、私たちはそれを自身の意思で突き放すことができます(或いは突き放されたと感じるかもしれません)。あくまで、それが自己の充足を目的とするものならば、「思考の箱」の変化は緊急性を要するものとはなりえないと推測します。

 

しかし、現実での「思考の箱」の機能不全は実質的な損害にも繋がりうることです。その上不理解な事態を突き放すことが可能であるとは限りません。その時に理解されるべきである状況は私たちに対して主体ともなりうるのです。この構造が「思考の箱」の変化を促していると考えます。

 

まとめ

ここまでで内的経験と社会的な交流によりもたらされる「思考の箱」と物語の関係性について触れてきました。物語をひとつの主体性をもった経験として受け入れる。それを実行するには幾らかの困難が伴うように私には思えました。そして

枠組みに対し自覚的になることにもひどく困難が伴う。

 

ここまで駄文・長文?に付き合ってくださりありがとうございました。