猫と月の廃墟

備忘録みたいなものです。

「笑い」と構造

笑いと構造

 

はい。こんにちは。こんばんは 或いはおはようございます。今回は「笑い」について書いて

いきたいなぁと思っている次第です。というのもここ最近バタイユの内的経験という著作に少し触れまして、改めて笑いとはなにかについて考え直す機会があったので、それがきっかけであると言えます。前置きはこのぐらいにして本文に入っていきたいと思います。

 

笑うということとその構造

 

まず、人が日常的に行うことがある行為の一つであるとされている「笑い」とはどのようなものか考えていきたいと思います。笑うという行為が発生するときに、そこには何らかの状況が存在すると考えます。ここで云う状況については広義のものとして捉えてくださってかまいませんが、強いていうなら連続的であると感じられる一日のうちにあるワンシーンのようなものと考えてくださってかまいません(ノベルゲーで例えるならシーン回想において一つの単位とされるアレを思い起こしてくださるとよいかと思います。

 

笑いあるところに状況あり。先ほどこのように述べました理由としては笑うという行為が何かを対象とした文脈的な行為であるからと考えるからです。これに関しては「お笑い」でよく見られる笑いを想像してくださるとよいかと思います。私感ではありますが、「お笑い」などの他者に見られることを前提とした文化形態はある種の様式のようなものをその文化圏において持っていると考えます。

そもそも、お笑いとは人を意図的に笑わせることを目的とした文化形態の一種であります。意図的に笑わせるためにはもちろん何らかの技巧が必要とされると考えます。これは日常において何かウィットに富んだ小話でもしようとした結果として、場の顰蹙を買ってしまうなどの経験をしたことがあるかたなら想像していただけるかと思います。彼らの芸は意図的に人を笑わせるためにはどのような技法・様式が必要とされるかをとことんまで突き詰めていく文化形態であるといってよいでしょう。

例えば、「お笑い」を見ていると、何だあれはまったく笑えないまたはわけが分からないなどと感じてしまうものが出てくるのは往々にしてある話です。わけが分からない、或いは全く笑えないと感じてしまう冷めた感情など。しかるにして、これらの感情は芸を行う彼ら(パフォーマー)と私たち(オーディエンス)の間で何らかの共通合意が存在しないが故に生起するものであると推測します。

ここにおける共通合意の不在こそが「お笑い」と日常、どちらにおいても起こりうる冷めた空気の原因であると考えます。このような冷めた空気は彼らの行為が理解できないという感情から生じるものであるということは先ほど述べた通りだ。しかし、理解できないとはどのようなことか。ここでは些か不適切ではあるが、前回の記事で述べた思考の箱に関しての私個人の考えをもとに話を展開していきたいと思います。

大きな枠組みと「笑い」

 

まず、現実における箱は社会的な交流のもとに合成された産物であると仮定します。ある事柄を理解するための大きな枠組みという機能を持つ以上それはその機能を果たす集団を横断するものでなくてはならないだろうという推論のもとから以上のように考えました。

前回記事より

 

 

思考の箱 - 猫と月の廃墟

 

前回の記事では、物語世界と現実において、それぞれ世界で他者が取りうる行為・感情などへの推論を可能とする大きな枠組みこそが「思考の箱」であると仮定いたしました。

では、ここに先ほど「お笑い」の項で述べた冷めた感情という現象について文脈的な推論を可能とさせる「思考の箱」という概念を照らし合わせてみるならどうでしょうか。

冷めた感情、これは「笑い」をもたらそうと意図されている行為が自身の期待にそぐわず理解できないものであったときに生じうると思われます。それが期待したものとは違っただけではなく、ましてや理解不能なものであったなら、それに対して抱いていた期待・感情の行き場はどうなりましょうか。いいや どうしようもないでしょう。それが期待していたものと違う。これは行為者とオーディエンスの間で「笑い」という枠組みに対しての齟齬があったがために生じたことで、始まりからして既に大きな断絶があったと言えます。

 

概していうなら、行為者とオーディエンスの間である状況に対してそれがもたらすであろう意味への認識の齟齬が冷たい空気をもたらしていると言えます。これは大きな枠組みにおいて推論を可能とする「思考の箱」において両者の間に内的経験か何かによる違いがあったからであるとも言い換えられます。これは日常レベルで笑いの感性などといわれるものであると考えます。結論としては、日常レベルで私たちが意図して「笑い」をもたらそうとした結果、そこで生じる冷たい空気は行為者(笑いをもたらそうとするもの)とオーディエンス(それを見るもの)の間にある認識の齟齬がもたらすものであると私は考えました。

ここまでである程度日常レベルでの「笑い」についての言及は終わりとしたいと思います。

 

ここで、意図された「笑い」にもう一度目を向けていきたいと思います。先ほどの日常レベルでの「笑い」についての言及で、笑いはある共有された枠組みがあって初めて成立するものであると仮定いたしました。これに関しては「お笑い」の次元においても同じであると考えます。では両者の間に跨る差異とは何か。ここではそれについて言及していきたいと考えます。

 

まず、初めに述べました通り「お笑い」とは人を意図的に笑わせることを目的とし、それについての技巧。手法の探求を行う文化形態であると私個人としては考えております。ここで先ほどまでの考えも踏まえますなら、「お笑い」とは如何に行為者とオーディエンスの間で共有された枠組みを見出し、両者の間での折衝をすすめていくかに苦心するものであるといってよいでしょう。しかし、共有された枠組みを見出すとはいっても、それは到底容易な作業であるようには思えません。プロは如何にしてそれをおこなうか。

 

この問いについて考えるならば、「時事ネタ」を挙げるのが一番であるように思われます。

時事ネタは個々の集団に依るアイデンティティなども異なるオーディエンス一同にとっても最も共通性を持つ枠組みの一つであると言えるはずです。しかし、時事ネタはその特性上時間と共に忘れられていく傾向にあるものであり、これだけではあまり不十分であるように思えます。

ここに従来の「お笑い」が持つ型が加わるのです。私個人の考えとしては、型は当然行為者とオーディエンスの間での共有された枠組みとなるべき設計されたものであり、それらが行為者の意図するところ(笑いの感性)時事ネタなどと複雑に絡まりあい一つの「型」となっていくのだと考えます。

 

つまり、「お笑い」という場においてはそこでの伝統的な型(枠組みと考えてもらって構わないです。)が形成され、時の変化に対応しているが故に日常的な「笑い」のレベルとは異なり、枠組みが共有された時には「笑い」がもたらされ、逆に共有されていなかったときには冷めた空気が生じるという独特の文化構造を生み出すに至っているのです。

 

笑うということ

 

まず、笑いとはある枠組みが共有され、それが面白いと感じられた時に生じます。ここではその「面白い」と感じる感性の面からではなく、笑うという行為そのものついても少しだけ触れていきたいと思います。

 

他者 笑い

 

笑いが起こる時には、そこに何らかの状況があります。広い意味での笑いならそこに

他者が存在しなくとも成立します(自嘲などはそれに当てはまるのではないかと考えます)。

しかし、自嘲にしてもそこに笑いがあるとき、笑われる対象は必ず存在するのです。

 

ある対象を笑うとき、私はその笑う主体と笑われる客体の間である領域の措定がなされると考えます。これは笑うという行為がある枠組み(価値。基準)に基づいたものであるからです。笑われる対象があるときに、それはある主体によって枠組みに照らしあわされた結果として、そのような枠のうちにあるから笑われているのだと考えます

 

メタ的な笑いとは

 

ここで笑うということが大きな枠組みと関わりつつ、領域の措定をなすものであると触れました。ここで一つの例を挙げたいと思います。お笑いにおいて時事ネタなどが取りあげられることがあるということは先ほど述べた通りですが、これら時事ネタは時に皮肉的な様相を含むように私は感じられます。皮肉的な様相、しかし、それら時事ネタを目にするとどうでしょか。ものにもよるとおもいますが、そこにおいて私は笑うのです。何故ならそこの行為者においてあたかもそのネタは笑われるべき対象であるかのように描かれ、私自身も大きな枠組みにおいてそれは笑われるべきものだと捉えてしまうからです。

そしてふと気が付くと自分が笑っているもののなかに自分自身の姿があることに気が付きます。そう、私がそれを笑ったときにそこにおいて領域の措定がなされます。それは大きな枠組みによってです。それはどうしようもなく。領域の措定がなされたときに、初めて私が笑っているものがいる領域は私自身が属する領域であると気が付いてしまったのです。

 

このように笑いの性質からして、笑われる対象が明確化されたときにそれに対して皮肉的な様相を見せるような笑いもあるのかもしれない とふと思いました。

 

まとめ

ここまで「笑い」ということを一つのテーマとして文章を書いてきましたが、ここらで一度終わりとさせていただきます。終始「笑い」についての文章でバタイユの思想に触れることはありませんでしたが、それはそれということで。ここまで読んでくださりありがとうございました