猫と月の廃墟

備忘録みたいなものです。

「イメージの力」展についての所感 イメージの言語化

「イメージの力」展についての所感 言語化されるイメージについて

 

はい お久しぶりです。こんにちは、こんばんは、或いはおはようございます。ここ最近私事のほうで少々忙しく、こちらのほうに気を配る時間もなく更新が滞っておりました。しかし、目下の課題もひと段落ついたため更新する次第となりました。さて、本題のほうに移りますと実は先日大阪にある国立民族学博物館のほうに行きまして、「イメージの力」展を見てきました。今回の記事ではそこで見た展示より受けたインスピレーションをもとに、内的なイメージを外部化すること、また外部化されたイメージに触れることについてダラダラと書き綴っていきたいと思います。しばしの間ですが、お付き合いいただければ幸いです。

 

■イメージとは

 

はい、今回見てきた展示がイメージを主題として取り扱ったものだったので、まず、イメージとは何ぞや という問いから始めていきます。

 

 

 

イメージ [名](スル)心に思い浮かべる像や情景。ある物事についていだく全体的な感じ。心像。形象。印象。また、心の中に思い描くこと

 

 

以上は「イメージ」の辞書的な意味であります。ここにおける意味を字面通り捉えるならば、イメージとは視覚的な対象(経験された事実)が先行し、それに対して私が心のなかに抱くぼんやりとした輪郭のようなものと言ってよいでしょう。

さて、ここから今回の展示内容におけるイメージとのすり合わせを行っていきます。

前述した通り、展示内容にまで詳しく言及することは避けますが、そこでの展示内容の一部で先史における「イメージの外部化」を主としたものがありました。

 

ここからは私個人の所感ですが、先史時代、様々な民族が形作ったオブジェクトのなかには彼らの信仰とも言えるもの、つまり後に体系化され宗教となっていくようなものに基づいたと考えられるものが多々見られました。さて、ここに現代におけるイメージの概念と先史におけるイメージの概念は連続的な線上にあるものではなく、大きな隔たりをもったものであると考えました。

理由としては、先史において、人々が作ったものには現代における「イメージの外部化」とは異なる点が見られました。これは全てに共通するものではありませんでしたが、何らかの形式を持ちつつも、個人の内的なイメージによるところが大きいという点です。

このことから私は先史において「神」、「精霊」などの神性を宿すとされた超越的なものは体系だった形を初めからもっていたのではなく、個人の内的なイメージが外部化されたものであると考えます。

 

■イメージの外部化について

 

では、近代における「イメージの外部化」とはどのようなものか。ここで私は近代という時代を代表する思想とは言えないかもしれないですが、一例として、フォーマリズムという概念を持ち出したいと考えます。

フォーマリズムとは何か。これについてはグリーンバーグという美術評論家が言及しております。

 

 

彼は、宗教芸術であれ、娯楽のための芸術であれ、宗教や娯楽といった他の価値観に依存してしかその存在価値を主張できないようなアートのあり方を批判して、アートに対してそれ本来の「独自のまた削減しえないようなもの」「それ自体に固有のものである個々の営利」といった条件を要求した。その結果、「視覚芸術は視覚的経験において得られるものだけにもっぱら自己を限定すべきものであり、その他の経験の部類において与えられるいかなるものとも関係を持つべきではない(現代思想 1997年5月号より)

 

 

以上がグリーンバーグによるフォーマリズムに対しての言及ですが、ここからフォーマリズムというものが視覚的な要素に偏重し、そこから得られる価値を重視するものと考えることができます。では、このような思想が成り立つために芸術には何が求められるでしょうか。それは「イメージの外部化」の先にある「イメージの言語化」であると考えます。

他の価値観によらない芸術とは、およそ社会的な文脈から切り離されてそれ独自で成り立ちうるような「体系」が必要となると考えます。そこで、視覚的な要素に偏重するフォルマリズムが成立するうえでは視覚的な要素(イメージ)を芸術家、ひいては鑑賞するものの間に成り立つ共通言語という土壌が必要ではないでしょうか。

つまり、この「フォーマリズム」とは個人の内的なイメージが外部化されるだけでは成り立たず、なおそこで示されたイメージが記号化され、共通言語となった上で成立するものであると私は仮定いたしました

そして、ここに先ほど述べた大きな隔たりが存在すると考えます。以上の仮定を踏まえて考えるならば、先史における「イメージの外部化」は個人の感覚が占める割合が大きいと考えられる一方で、近代における「イメージの外部化」とは「フォーマリズム」に見られるように個人のイメージに先立った集団的なイメージが存在するのではないだろうか。これらのことから、先史と近代の「イメージ」の間に大きな隔たりがあるのではないだろうかと考えるに至りました。ここではこの集団的なイメージが成り立つ過程を「イメージの言語化」と仮定いたします。

 

■イメージの言語化について

 

さて、ここまでに先史と近代の「イメージ」という概念の違いに触れてきましたが、次に何故このようなことが生じうるのかということについて考えていきたいと思います。

本展では、イメージは言語に先立つものであり、先史における人々はこのようなイメージをものとして外部化し共有するに至ったという旨の文章が書かれておりました。これについては私個人としても意見を同じくするところがありまして、言語が持つ状況を描写しうる性質、これはこのようにイメージを形として外部化することで成しえたと考えることは可能であるように思われます。

 

ここから、イメージが外部化の仮定を経て、遂には言語化されるまでに至ったことについて考えるうえでの指針を得ることができるのではないでしょうか。

 

それは内的なイメージを形として外部化することは「名指し」を可能とすると考えられるからです。例えば、私の内にある「神」や「精霊」などのイメージについて言語を用いることなく、それをあなたに伝えることは可能でしょうか。私はひどく困難であると考えます。しかし、一度私がそのイメージを形として外部化したならどうでしょうか。私はそれを指差すことで、「神」のイメージを名指すことができます。

 

しかし、そのイメージは「神」の観念を形として名指すには充分ですが、あくまでそこにおける「神」はまず形というものを経て言語化されます。このような過程を経るときに、形式それ自体が言語的な特性を得ると私は仮定しました。ここには「イメージの外部化」につきまとう指差しによる「名指し」の可能性が付きまとうからです。

 

ここまでに「イメージの外部化」と「イメージの言語化」について言及してきましたが、結論としては、私たちが日常的に抱くイメージは言語化された後に体系となったもので、現代において、言語化されたイメージは広く存在するものではないかと考えられます。

 

本題はここで終わりですが、次に以上のことから私が考えた「イメージの再言語化」について考えていきたいと思います。

■イメージの再言語化について 試論

さて、先ほど「イメージの言語化」について言及しましたが、イメージの言語化の広がりは先ほど述べたイメージ(視覚として見える形)に限った話ではなく、言語それ自体についても言えることはではないかと考えます。

 

これは私事についてですが、自分は何らかの問題について言及するときに、そこの背景にある構造的な問題を主として捉える節があります。そして、このような構造について既存の体系立った概念を用いつつ言及していくわけですが、その時に用いる概念の形式に偏重し、内容に対しての思慮が欠損していたことが往々にしてありました。

 

この場合、私は概念がもたらす形式としてのイメージのみならず、それを言語として問題に言及していたのです。この場合、問題それ自体もイメージとして捉えられているのではないかと考えるに至りました。

 

私がこのブログで記事にしている内容にはある作品についての言及の他に日々の生活のなかで感じたことも含まれています。このようなことを行う理由の一つとして、先ほど掲げた「イメージの再言語化」を図るというものがあります。

 

「イメージの再言語化」とはどういったことかと言えば、先史における「イメージの言語化」の再演と考えていただいて差し支えありません。ここでいう再演とは受け取ったイメージを再び自身の内で言語化し、外部化することを指します。

つまり、一度触れた概念に抱く言語的イメージを再び言語として外部化しようという試みです。

 

勿論、この試みがどれほどの実効性を持つかは、現時点においては定かではありません。ただ、イメージを再言語化する行為は言葉の意味が同語反復的な循環に陥ることに対して、幾らかの効果を持つのではないだろうかと今回の展示を見て思いました。

 

■まとめ

 

今回の記事では展示を通しての所感から、「イメージの言語化」を主題としてダラダラと書き綴りましが、ここらで終わりとさせていただきます。文中で最後に触れました「イメージの再言語化」については独断と私見を大いに含むため、不快感を抱かせてしまったなら本当に申し訳ないです。ただ私がブログ等で文章を書く理由としては一応上述したような理由が挙げられます。(実行できているかどうか怪しいところも多々ありますが・・・)

ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。