猫と月の廃墟

備忘録みたいなものです。

『ARIA』における日常性と都市の時間について

お久しぶりです。ここのところ、更新をサボっておりましたが、ふと思い立ち更新する次第となりました。さて本題に移りますと、今回の記事で扱ったものは日常性についてです。実のところ これについて書こうと思った動機は、私自身が日常系に分類される作品がもつ緩慢な時間の流れを好むことによるところが大きくあります。なかでも、都市を舞台とした日常性が好物でして、そのような日常性という良さを構築するものは何かと疑問に思い記事を書くに至りました。さて、そのような空気系に分類されるような作品において、都市が舞台とされるような作品が幾つかございますが、ここではそのような都市というモチーフが作品内の雰囲気(日常性)の構築にかかる重要性について考えていきたいと思います。そこで、自分は『ARIA』という作品にみられる日常性に焦点を当て、上述しました「都市と日常性」との関係について考えを進めました。
 
はじめに、先程述べました「ARIA」という作品がどのようなものであるか言及いたしますと、『ARIA』は火星のテラフォーミング後に開発されらネオ・ヴェネチアという街を舞台として、主人公の水無灯里が一人前のウンディーネになるべく修行を積む日々を描いたものです。これでは、『ARIA』が成長物語的な性格を持つ作品であるように思われますが(そのような面もありますが)、実際のところ、ウンディーネとしての修行は物語におけるウェイトがそこまでかかっておらず、日々の生活のなかにウンディーネとしての修行も含まれています。
さて、以上が『ARIA』という作品をかなり大雑把に説明したものですが、不足点等々は多々あるので、不明な点がございましたら適宜ネットなどで補完してくださると幸いです。
では、本題に移りますと先程述べたことから、第一に『ARIA』という作品において、ネオ・ヴェネチアという「都市」が舞台とされていることが認められます。そこで、『ARIA』において感じられる「日常性」を担保するものとして、「都市」が果たす機能に着目し、以下の分析を進めていきます。
 
 ⑴日常性について 類似性から
まず、『ARIA』における日常性を考えるまえに「日常性」とは何かにつての再考を試みます。
 
①日常性とは
日常性を人間が通常ある在り方と考えるならば、日常性を非日常性と対置されるものであるとした場合、日常性は質的に異なる時間(非日常性)と比べて占める比重が高いものであると考えます。
 
また、このような日常性をもつ時間において、人々は生活を維持すべく生活構造にある様式を反復します。
日常性をもつ時間は非日常性とは異なり、それが非日常性への比重の違いから持続のビジョンをもち、以上のような生活構造にある様式の反復性が存在すると考えられます。
 
また、前述しました持続のビジョンという点について言及を加えるならば、このようなビジョンは反復的に展開される時間性に加えて、そのような「反復された」ものという印象は過去に先行し、未来に投射されるようなイメージもってして可能となるものであると考えられます。これは反復という印象が類似性の認識のプロセスによるものであると考えられるからです。ここに持続のビジョンがある種の再認へのイメージ(単位)として機能しているのではないかと考えます。
 
以上のことから、ここでは日常性は時間的性質とその内にある反復性をもった生活様式によるものであるとします。
 
次に、このような日常性が「ARIA」においても感じられたということは、「ARIA」における日常性にも時間的性質と生活様式にある反復性にかかるところが大きいと考えられるのではないでしょうか。
 
以下では、『ARIA』の日常性を保障する構造を、ネオ・ヴェネチアにおける時間的性質 と ネオ・ヴェネチアの生活様式にある反復性から捉えていきたいと思います。
 
ARIAにおける 都市という媒体
 ⑴人々が内包する時間
「日常性」という考えを踏まえたうえで、『ARIA』本編において見られる「日常性」について考察を進めていきます。ここでは、ARIAにおける日常性を巨視的視点と微視的視点という二つの視点から見ていきます。まず、第一に微視的視点から
 
ARIA』の日常性を見ていくと、生活様式から考えるならば、『ARIA』において生活様式と生活時間は主としてウンディーネである水無灯里の視点から描かれており、そこでの生活様式・時間は反復的な性格を帯びているように思えます。
 
はじめに少し触れたことですが、ARIAという作品は主人公の成長を描くことはあっても、その成長を生活時間とは質的に異なるような時間のなかに描くことはありません。これは成長というファクターをドラマツルギーとして組み込まずに日常性=連続性のうちに組み込んでしまうことを意味します。
 
些細な変化はあっても、生活時間が揺らぐような質的に異なる時間は訪れない。 このように生活時間の連続性が保たれていることから、『ARIA』において生活様式・時間は連続的な性格を帯びているように思われます。
 
では、このような作品内における生活様式の連続性を保障するものは何か。このことについて巨視的視点からの分析を進めていきます。
 
⑵都市が内包する時間
 
まず、生活的時間の連続性というものは、先程述べましたように先行する単位、詰まる所の類似性を感じさせるイメージをもってして生じるものです。では、ARIAの生活的時間に先行する連続性をもつイメージとは何か。
 
第一に水無灯里の生活時間、ARIAにおいて描写される生活様式が挙げられますが、日常性は、持続のイメージに基づき生活様式・時間の反復的な再認を通して認められるということから、物語の当初の段階では、これが日常性を保障することは難しいと考えられます。何故なら、水無灯里生活様式・時間は未だ反復的な再認をされるに至っていないからです。
 
前述したミクロな生活的時間も先行する連続性をもつイメージのひとつではありますが、日常性を保障するもう一つの連続性を持つイメージとして、ネオ・ヴェネチアの時間(都市の時間)というものに着目します。
 
ARIA』では、物語の随所でネオ・ヴェネチアの人々の生活や景観についての説明が加えられる場面があります。これらのものは、水無灯里の生活的時間とは異なり、ネオ・ヴェネチアの歴史のなかで形成されてきた習慣でありますが、このようなものはネオ・ヴェネチアという都市が今に至るまで持続してきたものであり、そこに至る過程で人々の生活的時間も形成されてきたことを示します。
 
ここで着目したい点は、そのような巨視的な生活時間を水無灯里が反復するという場面が作品では幾つか見られるというところにあります。
 
例えば、作中ではネオ・ヴェネチアでは古くからとり行われてきたカーニヴァルという行事に水無灯里が参加するというお話がありますが、ここでは、水無灯里の生活時間(ミクロ)の視点にありながら、都市の生活時間(マクロ)が反復されるという構造が認められます。
 
このことは、生活時間に先行するイメージはミクロな生活時間に限らず、「都市」という媒体を通して伝えられる「都市の時間」にも負うところが大きいということを示します。
 
「都市の時間」は歴史性とも形容できるものですが、『ARIA』における「都市の時間」は慣習的な行事を通して認められるものであり、これは「これからも続く」ような「日常性」を「生活時間」に先行するイメージとして保障するものであると考えるに至りました。ここから、持続のイメージを担うマクロな「都市の時間」と持続的な反復がなされる実践の場としての水無灯里の「生活時間」に二重の構造が見出せるのではないでしょうか。
 
 
 
 
ここまで、『ARIA』における「都市」と「日常性」という二つの要素に目を当ててきました。Twitter上でぽつぽつと呟いてきたことを形にしたいと思い立ち、このような文章を書くに至りました。また適宜修正・加筆を行うかもしれません。
ここまで読んでくださりありがとうございました。ではまた