猫と月の廃墟

備忘録みたいなものです。

猫撫ディストーション 雑感

猫撫ディストーション始めました。

はい。先日から猫撫ディストーションをプレイし始めましたが、共通と思われるパートが終わったので。それを踏まえての雑多な所感をここでまとめていきたいと思います。

 

はじめに言葉があって 七枷琴子 引用①

                

 

これはご存知のかたもいらっしゃると思いますが、かの有名な聖書の文言に関わると思われるセリフの一つですね。本ゲームではまずこの文言より物語が始まります。

 

・物語と言葉

 

  1. 物語とは文字に限らず、何らかの情報伝達媒体を以って紡がれるものです。これに関しては先日の記事でも記しましたが、個人の想い 内的経験による部分が言語には確かに存在します。そしてこれは大きな枠組みにおいて理解できるものではありません。彼らが見てきた世界・経験を彼らの口から知り、同じ地平に立とうとする意思が必要となると考えます。そしてこの物語もまた言葉から世界が始まるのです。

 

 

家族とは

 

家族という枠組みはこのゲームでは頻繁に見られる言葉であると思います。この一つの枠組みとそれに類する人に対し、主人公はかたくなに目を背けてきました。彼は何故それに対して目を背けてて、かたくなに観るまいとしてきたのか。ここではそのことについて

言及していきたいと思います。

いつのまにか その中に放り込まれて

    七枷 樹  引用②

 

これは七枷 樹が何をも観ていないとき。灰色の世界で生きていたときに漏らした言葉です。これは彼がこの時に、家族というものを制度的な枠としてしかとらえていないことに起因すると考えます。家族とはその意味において非常に多義的かつ、それについての定義を明確化することはここでの目的ではないために割愛させていただきます。

彼は母も姉も父も自身には理解できないものであるとしてそれを観ないように心掛けていました。そして理解できないものであるからこそそれと話すこともない。理解できないもの 何故それが理解できないという感情が生じるのか。それは情報の提示不足が原因であると思われます。人と人とが何らかの対話的な関係を構築する際に必要とされるもの それは何らかの合意であると考えます(これについては前回の記事で言及しております)そして合意が成立するうえでお互いがどこに位置し何を持つものであるか などの基本的な情報が必要であると考えます。彼の場合では、それが圧倒的に不足していました。生まれてすぐになる家族だった場合、その時から家族のこと自身の経験を以って認識していきます。経験の過程で彼らの情報は提示され、情報と日常見られる彼らの生活の姿はその人にとっての「言葉」の世界において密接に結びつき、一つの像を描きます。ここにおいては、彼にとっての母が母であることは経験が保障しているとされるものです。ここには確かに時間的(経験)に保障された言葉と像の結びつきが見られると考えます。しかし本編を見る限り彼の家族との過去は流れ星の日を境にひとつの断絶が見られます。そこにある「家族」はただ「母」などの制度的な名により保障されたものでしかないのです。時間的な共通軸を持たないから、彼は観るのをやめたのかもしれません。

  1. この言葉を本ゲームにおける最初の文言と照らし合わせてみます。言葉は私たちが生まれたときから、世界と共にあるものです。そして私たちは周囲の世界の言葉を通して世界を認識していきます。これは恐らく人が人として世界を認識するためには避けては通れない過程であると思います。そして周囲の世界での言葉を聞き、言葉と世界を結び付けていきます。これは本ゲームにおいて言葉を用い認識を共有する過程と性質からして同じとされるようなものであると思いますが、生まれたときから共有を同じくすることが必要とされるようなことがある集団、家族とはそのような社会的集団としての側面も孕むと思います。そして樹はそれを放り込まれた箱のようなものとして捉え、それに対し否定的な感情を抱いているように思えました。

 

 

 

家族 時間的なそれ

七枷 樹の世界において家族という言葉とその像は結びつきを持ちませんでした。彼にとってあの日以来の家族はただ家族であるがゆえに家族であるという同語反復めいたものであったのかもしれません。何故なら内的経験による意味が自身のうちで保障されていない場合、認識のフレームは社会的に形成された大きな枠組みに頼るほかありません。七枷樹が放り込まれたのはそんな世界でしょう。

 

新しい世界

 

琴子の死後、灰色の世界で生きてきた彼は数年後流れ星を再び見たときにまた琴子と出会うことになります。ここにおいて琴子は「また 私を観てくれたから」といいます。しかし先ほどの場面でも取り上げられた「観る」ということはどのようなことなのでしょうか。

これについて触れていきたいと思います。先ほどの世界で樹はその意思を以って世界を観ることを受け入れられなかったからです。それは琴子の死という耐え難い現実からの逃避であるかもしれませんし、或いは目の前にある彼らを共時的な感覚でとらえることができなかったからが故であるかもしれません。しかしどちらにおいても彼はその世界を受け入れず拒絶したが故に観ることを止めたのです。

 

観るとは意識を以ってし、それに向き合うこと

ここにおいて見るとは何らかの主体性を伴った意識を以って世界と向き合うことではないだろうかと考えます。

 

「私たちは家族だ」

家族というものは先ほど述べたようにある枠組みにおいてそれを捉えるなら、それがそれであるが故にそうあるものと考えてよいかと思います。それがそれであるが故にそうある状態はある社会的集団において自明のものとされていることがあります。生得的に家族となった場合、そこにおいて彼らの関係が「家族」という言葉に始まったとされることは彼らのうちにおいて自明のものとされるが故にその言葉が口に出されることはあまりないかと思います。

しかし、この物語でそのような言葉が用いられることはそれが持つ不確かさを示唆するものであると考えます。共通ルートにおいて彼らは互いが「私たちは家族である」ということの呼応を行うことによって言葉によった関係性の不確かさを補っているかのようにも見えました。また家族であると確認する行為はそれと同時に他者の領域も措定する行為でもあると考えます。他者を他者として捉え(認識の外に置く)家族という世界を固定する、この呼応にはそのような意味合いも込められているのではないかと邪推いたしました。

 

 

 

 

とりあえず感想みたいなもの

全体として共通ルートにおいては個別ルートで展開されるそれぞれのヒロインのテーマ性のようなものを示唆しつつ、七枷家とその周辺を描いていくような流れでした。やはり作品の随所において哲学的な思想と思われるものや量子力学に関する言葉と思われるものも散見されました。しかし、それらの要素に触れずとも各々のキャラクターが魅力的なため キャラゲーとしても案外楽しめるのではないかと思ったり思わなかったり。共通についてはまた考えが纏まり次第適宜修正を加えていく次第です(或いは別の記事としてまとめみたいなものを書くかもしれないです。