『ARIA』②
『ARIA』②
お久しぶりです。前回の更新から随分と日が空いてしまいましたが、前回の記事を書いた後に『ARIA』を再読いたしました。その時、幾らか思うところがあって今回の記事を書く次第となりました。さて、本題に移りますと『ARIA』という作品に内在する日常性の構造については、不足ながらも前回の記事で言及いたしました。つきましては、今回の記事は加筆に近い形式を採らせていただくことで、本作品における風景描写に焦点を当てつつ、更に考えを深めていきたいと思います。
『ARIA』での風景描写とは
まず、前回の記事では『ARIA』という作品に内在する日常性の構造を、水無灯里の時間とネオ・ヴェネチアの時間という二つの時間のもとに成立しているものであるとしました。
『ARIA』という作品において、主観的な視点となる水無灯里の日常生活の時間は、長い歴史をもって形作られてきたネオ・ヴェネチアでの周期的な時間に内包されているように思えます。『ARIA』という作品では、作品内の時間は四季の流れにそうように経過していきます。このような四季の流れのなか、ウンディーネとして修行を重ねる水無灯里の日常生活が描かれる一方で、ネオ・ヴェネチアでの四季折々の慣習・行事に接する水無灯里の姿も日常生活の一部分として描かれているのです。ここに、水無灯里がネオ・ヴェネチアにくる前から続いていた慣習・行事が水無灯里という主観的な視点を通して「反復」されるという構造が見出されるのではないかと考えるにいたりました。そして、このような慣習・行事が主観的な視点を通して反復されることで「来年にも」という反復可能性をもった長期的な持続のビジョンが形作られ、日常性を持ったゆっくりとした時間が形成されるのでは・・という結論に至りました。以上が前回の記事の概要ですが、今回の記事では『ARIA』本編での風景描写と「反復」という印象に焦点を当てつつ、論を進めていくこととなります。
まず、風景描写についてということで『ARIA』本編からの抜粋を一つ挙げさせていただきます。
網の目状に広がる迷宮のような街を歩き続けると やがて あることに気が付きます。
小道を抜けて広場へ 橋を渡って運河へ どこまでも規則正しく繰り返される風景が
この街を歩く人に一定のリズムを与えてくれるのです。
以上の抜粋は『ARIA』本編でのネオ・ヴェネチアで水無灯里たちが宝探しをするというエピソードからのものです。宝探しをする際に水無灯里たちはネオ・ヴェネチアの街を歩くこととなるのですが、その時に水無灯里はネオ・ヴェネチアという都市の風景はある種の規則性のもとに形作られていることに気が付きます。それが先ほど抜粋しました規則正しく繰り返される風景、反復されるかのごとき風景のことです。では、都市を歩く時に生じる風景が反復されたという印象はどのようにして生じるか。風景が反復された、このような印象はそれ自体が過去に受けた印象からの連続性のもとに成り立つものであるように思えます。先に挙げました抜粋でいうならば、「小道を抜けて広場へ、橋を渡って運河へ」のような経験から、景観のなかにある種のシェーマ(様式)が認知されることで次に同じようなシェーマを認知したときに「反復」されたという印象が生じるのではないかと考えます。
また、「歩く人に一定のリズムを与える」ということからもネオ・ヴェネチアの「風景の反復性」が経験からくるシェーマ(様式)だけではなく、建物の尺度にもある程度の規則性が存在し、そのような規則性のもとに建物の配置がなされているのではないかと考えました。
以上のことから、水無灯里が受けた「風景の反復性」はネオ・ヴェネチアの景観にあるものの尺度としての規則性と街を歩くという経験からくるシェーマ(様式)によるものであり、ネオ・ヴェネチアにはこのような印象を成り立たせる土壌が景観として存在すると考えるにいたりました。
「反復」と「風景」
先の節では、「風景の反復性」について触れましたが、ここでは『ARIA』本編で移り行く四季のなか、風景がどのように描かれているかも踏まえた上で『ARIA』という作品が日常をどのようなものとして描いているかを射程として捉えていきたいと思います。
まず、『ARIA』の時間の流れは四季に沿っていますが、そこでの四季折々の風景は過去との連続性のうちにありつつも、水無灯里の視点を通すことで違った風景として描かれています。その例として一つ挙げるならば、水無灯里がウンディーネとしての修業に励むある日、その時に乗船していたお客が水無灯里が普段通っているような水路で水無灯里が見つけたこともない庭を見つけたこということが挙げられるでしょう。
ここでは、日常的に通っているような水路であっても、そこにはまだ気づいていないような「素敵なもの」があるといった具合に描かれていますが、「風景の反復性」と「時間の反復性」という観点から見るならば、この例は幾らかの示唆的な意味合いを持ってくるように思われます。それは反復的な風景・時間のなかにおいても、偶然的な価値が存在するということを示しているのではないでしょうか。
同じものでも、時間帯によって全く違う顔を見せてくれたり、季節が変わることで空気や色合いも移ろっていく その時、その場に居合わせる自分の気持ちひとつで見えてくる世界がまったく変わってしまう。
上述した抜粋は『ARIA』本編でアリシアが発した一言からのものです。ここから、水無灯里の視点
を通して描かれる『ARIA』での日常的風景は、四季を通した円環的・反復的な時間のなかでまだ見ぬ価値を秘めたものとして描かれているのではないでしょうか。また、このことから『ARIA』という作品において、「日常」は反復的なものでありながらも、新しい価値を生み出すものとして描かれているという考えにいたりました。このように『ARIA』という作品は、「日常」という「反復される時間」から生まれる風景・価値を提示しているのではないでしょうか。
以上で今回の記事の内容は終わりとさせていただきます。ここまで読んでくださりありがとうございました。